アトリー政権 (1945年-1951年)
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「労働党 (イギリス)」の記事における「アトリー政権 (1945年-1951年)」の解説
労働党が行った福祉政策の方向性を指して、「ゆりかごから墓場まで」という言葉が作られた。また、1935年に党首に就任したクレメント・アトリーは第二次世界大戦勝利直前の1945年総選挙で労働党を勝利に導き、挙国一致体制で戦時下の舵取りを担った保守党のウィンストン・チャーチル政権を下野させ、ジョージ6世からの組閣大命を受け首相に就任した。アトリー内閣では石炭や鉄道、通信などの重要基幹産業の国営化を行った。ただし、フェビアン協会の影響力などもあり、党内で教条主義の影響力は限られ、キリスト教社会主義や社会改良主義の影響が強かった。また組織としては労働組合の組合員が事実上自動的に労働党員となるなど、組合の影響力が非常に大きかった。 1951年総選挙で労働党は敗北し、チャーチルが首相に再就任して保守党に政権を奪還されたものの、基本的にアトリー労働党内閣の福祉国家政策は継承された。しかし、こうした福祉政策の充実と基幹産業の国営化は、植民地独立によるイギリス帝国の没落と共に国家財政を逼迫させ、経済の悪化をもたらした。こうした状況は英国病と呼ばれた。優遇された労組の度重なるストライキにより社会が麻痺状態に陥った不満の冬(1978年~1979年)がイギリス国民の労働党不信を決定づけ、労働党は18年に渡り政権から遠ざかることとなった。1980年代から1990年代中頃までの保守党政権時代で特にマーガレット・サッチャー内閣にとってはこの英国病の克服は重要な課題であった。
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