パレスチナの探険
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「エドワード・ロビンソン (学者)」の記事における「パレスチナの探険」の解説
1838年、ロビンソンはイーライ・スミス (Eli Smith) とともにパレスチナを訪れ、その成果をまとめた『Biblical Researches in Palestine and Adjacent Countries』を出版し、これに対して1842年にイギリスの王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた。1847年には、アメリカ芸術科学アカデミー会員(フェロー)に選出された。ロビンソンは、スミスとともに、何十カ所もの古代の場所の同定作業を行ない、その中には紀元前701年から702年にかけてのアッシリアによるエルサレム包囲 (Assyrian Siege of Jerusalem) の直前にヒゼキヤが掘らせたというトンネル(ヒゼキヤのトンネル:Hezekiah's Tunnel)もあったが、トンネルの南端からシロアム碑文 (Siloam inscription) が出土したのは、その後になってからのことであった。エルサレム旧市街にあるロビンソン・アーチ (Robinson's Arch) は、ロビンソンにちなんで名付けられたものである。ロビンソンとスミスは、1852年にさらに調査を行うため、パレスチナを再訪した。ロビンソンにとって、1856年に 『Biblical Researches in Palestine and Adjacent Countries』の増補版がドイツ語と英語で同時に出版されたことは、1836年にヴィルヘルム・ゲゼニウス (Wilhelm Gesenius) のヘブライ語の語彙目録の翻訳と、ギリシア語の新約聖書語彙目録を刊行したとき以来の、大きな達成であったのであろう。既に、このかつての業績によって、学者としてのロビンソンの地位は不動のものとなっており、ギリシア語語彙目録の序文でロビンソンは「これたふたつを合わせれば、聖書原典のすべてを網羅した語彙目録となる」と記していた。しかし、これに加えて3点の主要著作が出され、その後の考古学的フィールド調査への筋道を示したことによって、この方面の「創始者 (Founder)」としてのロビンソンの評判はさらに高められた。1941年、G・アーネスト・ライト (G. Ernest Wright) は、ロビンソンが打ち立てた定式を評価する立場から、ネルソン・グリュック (Nelson Glueck) の『The Other Side of the Jordan』で報告された先駆的な調査の内容についての書評に、次のように記した。「グリュックの探険は何者にも劣るところがない、エドワード・ロビンソンの業績があるところは別としてのことだが。 (Glueck’s explorations are second to none, unless it is those of Edward Robinson.)」
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