設立と創設者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:34 UTC 版)
創設者アブラハム・シュテルンはゼエヴ・ジャボチンスキー(英: Ze'ev Jabotinsky、ヘブライ: זאב ז'בוטינסקי)により創始された修正シオニズム運動を支持し、イルグン(ヘブライ: הארגון הצבאי הלאומי בארץ ישראל / ハ-イルグン・ハ-ツヴァイ・ハ-レウミ・ベ-エレツ・イスラエル、設立者はジャボチンスキー)に参加していた。 1940年6月、第二次世界大戦の勃発によりイルグンがイギリスに対する地下軍事行動を止めたことで彼はイルグンを去り、自ら発起者となってイスラエル国家軍事機関(Irgun Tsvai Leumi B'Yisrael)と呼ばれるグループを設立した。これが後のレヒとなる。 イギリスは戦争においてナチス・ドイツと敵対していたが、シュテルンはパレスチナに暮らすユダヤ人はイギリスに対して支援するよりも、戦いを仕掛けるべきだと考えており、また軍事的手段に頼ることでより効率的に目標を成し遂げることができると信じていた。 彼は1939年のマクドナルド白書(英: White Paper of 1939、イギリス国内で決議された、ユダヤ人のパレスチナへの移住や土地の購入を制限する内容の声明)に対しても強く異議を唱えた。彼はパレスチナの最も重要な役割はヨーロッパから逃げ延びて難民となったユダヤ人達の受け皿となることだと考えていた。しかし、彼の旧友ダヴィド・ラズィエル(英: en:David RazielDavid Raziel、ヘブライ: דוד רזיאל)はナチスドイツと戦うためにイシューヴ(ユダヤ共同体、この時代のユダヤ人中央暫定政府のこともいう)はイギリス当局を支援すべきとしてシュテルンと袂を分けることになる。シュテルンの考えは国家の建設を妨げる『外国人居留者』のために死ぬ必要はないということだった。しかし、イギリス軍に入隊したラズィエルは1941年、イラクでの任務中、命を落としてしまう。 シュテルンはイギリスを『ユダヤ民族の敵』、ナチスを『ユダヤ嫌悪者』として別格のものと見るようになっていた。シュテルンは前者は敗北すべきであり、後者は利用すべきと考えた。そしてイスラエル新国家建国の際に援助を得ることも視野に入れ、第二次世界大戦での協力を条件にユダヤ人難民を解放する交渉をナチス当局に持ちかけた。
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