設立と初期の成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/08 18:00 UTC 版)
「エリー・ラッカワナ鉄道」の記事における「設立と初期の成功」の解説
州際通商委員会は1960年9月13日に合併を承認し、10月17日付でエリー鉄道とデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道が合併してエリー・ラッカワナ鉄道が発足した。 エリー・ラッカワナ鉄道は、その16年間の存在期間中、ほぼ常時存続をかけて戦っていた。合併元の2社は着実に旅客・貨物輸送量を減らし、資金を失い、長年積み重なった巨額の債務に苦しみ、資産税を課され、規模が大きく損失の大きい通勤輸送事業を行っていた。これらの歴史の長い2社は、合併の4年前の1956年から、ハドソン川沿いやニューヨーク州南部などで設備の統合を開始していた。デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道は1940年代以来、ペンシルベニア州の無煙炭やセメントの輸送が衰退していたことに大きな影響を受けていた。エリー鉄道は、1950年代に高速道路の改良が進んで以来、運賃の高い果物や野菜の西部からニューヨークへの輸送を失いつつあった。また両社とも、1959年のセントローレンス海路の開通で、ヨーロッパやアフリカ、南アメリカなどの港と五大湖沿岸のバッファロー、クリーブランド、デトロイト、ダルース、シカゴなどの町が大洋用の大型貨物船で結ばれたことにも影響を受けていた。デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道はハドソン川沿いのホーボーケン駅に港湾設備を所有しており、以前は船舶に積み込みあるいは積み降ろされた多くの物資を輸送していた。 エリー・ラッカワナ鉄道を含め、北東部の鉄道はすべて、過剰な規制、政府の補助金を受けた高速道路や水路との競争、都市部における高い資産税、通勤輸送、市場の飽和(残されている需要に対して多すぎる鉄道路線がある)などの問題から衰退し始めていた。東部の都市では1960年代に古い多層階建ての工場の閉鎖が見られ、さらに1970年代になると自動車や製鉄などの産業の衰退も続き、エリー・ラッカワナ鉄道にとっての伝統的な輸送需要を侵食した。また、19世紀末に制定された政府の規制政策のために、エリー・ラッカワナ鉄道も他の鉄道会社も、航空機・バス・自家用車などとの競争により不採算となっていた長距離の旅客列車の廃止をすぐには実施できなかった。 しかしエリー・ラッカワナ鉄道は、大規模な費用削減(並行路線の廃止)、設備の近代化、郊外における工業の発展、ピギーバック輸送の増加、長距離旅客輸送の着実な削減(1970年1月6日に全廃)などにより、1960年代半ばから末にかけては利益を計上していた。また、エリー・ラッカワナ鉄道の路線がかなりの部分で並行していたペン・セントラル鉄道の路線が輸送障害を起こしていたことから、一時的にエリー・ラッカワナ鉄道へ移ってくる輸送需要も見られていた。エリー・ラッカワナ鉄道は最新式のディーゼル機関車修理施設をオハイオ州マリオンに建設し、ペンシルベニア州ミードビル(英語版)の大規模な車両修理工場を改修した。ニューヨーク都市圏における損失の大きな郊外旅客輸送に関しては、エリー・ラッカワナ鉄道はニュージャージー州と1960年代末に協定を結び、新しい機関車や客車の購入に関して適切な補助金を得られることになった。また1970年にはユナイテッド・パーセル・サービス (UPS) との間に利益の上がる契約を結ぶことに成功し、ニュージャージーとシカゴを結んで毎日5本のインターモーダル輸送の列車の運転が始まった。
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設立と初期の成功
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「ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニー」の記事における「設立と初期の成功」の解説
会社は1823年にジョージ・スチーブンソン、その息子のロバート・スチーブンソン、エドワード・ピース(英語版)、マイケル・ロングリッジ(Michael Longridge、ベドリントン(英語版)にある鉄工場の所有者であった)らによってイングランド、ニューカッスル・アポン・タインのフォース・ストリートに設立された。彼らによるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の建設の一環として設立されたものであった。工場の管理者はしばらく、後にジョージ・スチーブンソンと同じくイギリス機械学会(英語版)の会長を務めることになるジェームズ・ケネディ(英語版)が担当していた。 最初の機関車は「ロコモーション・ナンバーワン(英語版)」で、これによって製造ラインが開かれ、続いて「ホープ」(Hope)、「ブラック・ダイヤモンド」(Black Diamond)、「ディリジェンス」(Diligence) という3両が製作された。垂直に取り付けられたシリンダーのため、これらの機関車は動揺が激しく、ヘットン炭鉱鉄道(英語版)ではスチーブンソンは蒸気圧によるスプリングを導入してみたが、失敗に終わった。1828年には「エクスペリメント」(Experiment) において斜めにシリンダーを取り付けて、安定性を改善しまたスプリングの上に取り付けられるようになった。当初は4輪であった「ビクトリー」(Victory) も造られ、後に6輪に改造された。この頃、アメリカ合衆国向けに2両の機関車が製造されている。最初の1両、4輪の「アメリカ」(America) はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道による発注であった。2両目は6輪の「ウィスラー」(Whistler)で、1833年にボストン・アンド・プロビデンス鉄道(英語版)向けに製造されたが、後に「マサチューセッツ」(Massachusetts) と改称され、マサチューセッツ州マンスフィールド(英語版)において沼に沈んで失われた。
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