設立とピューリタンの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/02 13:56 UTC 版)
「ストラトフォード (コネチカット州)」の記事における「設立とピューリタンの時代」の解説
ストラトフォードは1639年に、ピューリタンの指導者アダム・ブラックマン、ウィリアム・バーズリー他によって、「ペクォノック」のプランテーションとして設立された。この時イングランドから宗教的な自由さを求めてコネチカットに移ってきたばかりの、伝説に拠れば16家族、後の研究に拠れば35家族が入植した。1640年、町は「クフィーグ・プランテーション」と呼ばれた。1643年4月13日までに成長していた町は、イングランドのストラトフォード=アポン=エイヴォン(ウィリアム・シェークスピアの生誕地)にちなみ、「ストラトフォード」と呼ばれるようになった。 ストラトフォードは北アメリカ北東部の植民地に、1630年代の大移住の一部として設立された多くの町の1つだった。このときイングランドでは、国王チャールズ1世と議会派(オリバー・クロムウェルが指導)との間にイングランド内戦が起きる10年ほど前の時代であり、ピューリタンの家族が次第に分極、偏向するイングランドから逃げ出していた。ストラトフォード開拓者の中には、信教の自由のためにまずイングランドからオランダに渡った者達もいた。彼らは「メイフラワー号」で大西洋を渡った先人達と同様に、子供たちがオランダの文化と言語に慣れ始めるのを見て、新世界に移住することを決断した。 この時期に設立されたピューリタンやピルグリムの町と同様に、初期のストラトフォードでは教会の指導層と町の指導層が教会牧師の下に結合しており、ストラトフォードの場合はそれがブラックマン牧師だった。このような町の目標は宗教的な理想主義に基づく開拓地を創設することであり、荒野が国王、議会あるいはその他の権威筋からの干渉と分けてくれるものになった。 ブラックマンがその死の1665年まで町を支配したが、第二世代が成長するに連れて、子供たちの多くは町の設立者達の例外的厳格さと考えるものを拒否するようになった。この世代とさらに後の世代は長老たちの宗教的見解を変えることを求め、ストラトフォードと類似した町のユートピア的性格は次第に、より標準的な植民地管理に置き換えられていった。17世紀後半までにコネチカット政府はストラトフォードに対する政治的支配を行うようになっていた。 初期ピューリタン家族の子孫の多くが、350年以上経った今もストラトフォードに残っている。長い間に17世紀のピルグリム家族の小さな集団の中で婚姻を結ぶことも多かった。そのピューリタンの起源にも拘わらず、ストラトフォードはコネチカット州で初のイングランド国教会が建てられた場所である。1707年に設立され、サミュエル・ジョンソン博士が最初の牧師だった。ストラトフォードの開拓者はアメリカの他の都市や町も設立した。例えば、ニュージャージー州ニューアークは1666年にストラトフォード設立家族の一員によって設立された。彼らは町の宗教的純潔さがブラックマンの死後の変化で妥協させられるようになったと考えていた。その他にもニューヨーク州カンブリア(現在のロックポート市)は、ストラトフォードの子孫が西に移住して来て、新しい教会の周りに設立され、拡張された。アメリカ合衆国大統領ジェラルド・フォードは、ウィリアム・ジャドソンが率いていたストラトフォード設立家族の1つの子孫である。
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