設立と営業開始とは? わかりやすく解説

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設立と営業開始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)

南満洲鉄道」の記事における「設立と営業開始」の解説

1906年11月1日満鉄設立逓信大臣より認可された。11月26日南満洲鉄道株式会社半官半民によって設立され同日創立総会神田区東京キリスト教青年会会館において開催された。初代総裁には台湾総督府民政長官だった後藤新平任じられた。設立上述通り勅令基づいてなされ、総裁勅任資本金は2億円であった。しかし、政府日露戦争戦費の処理と軍拡財源捻出苦しんでおり、巨額資金を出すことはできなかった。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および撫順炭田煙台炭田などの現物出資とした。残り1億円は、日清両国出資とされたが、満鉄設立不当とする清国参加せず民間からの投資日本での株式募集2000万円、のこり8000万円外資による社債賄うこととした。当時日本人満鉄寄せた期待大きく第1回株式募集応募殺到したのは上述のとおりである。一方外債募集は、1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場求められた。イギリス調達したのは600ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府支援があったにもかかわらず条件合わず外債募集不成立終わった政府による事業資金日本興業銀行から社債などのかたちで投資され満鉄への投資は同銀行対外投資総額の約7割を占めていた。ところが実は、興業銀行関係対外投資74パーセント輸入外資頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった。その点では英米金融資本への従属生じており、一見資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況みられる後藤新平満鉄総裁推挙したのは、台湾総督在任のまま満洲軍総参謀長となった児玉源太郎であった後藤は、当初満鉄総裁就任固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉1906年7月急逝したので、これを天命考え児玉遺志引き継ぐ決心をして総裁職引き受けたといわれる後藤台湾経営での辣腕ぶりが評価され低コストでの満洲経営山縣伊藤らの元老立憲政友会西園寺公望原敬ら)といった人びとからも期待された。日露戦争後満洲は、いわゆる三頭政治」(関東都督府奉天総領事館南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営主導権争われていたが、日本領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの混乱の原因があった。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現期待された。後藤は、満鉄監督官庁である関東都督府干渉によって満鉄自由に活動できないこと懸念し総裁就任条件として、満鉄総裁関東都督府最高顧問兼任することで西園寺首相合意したまた、人材確保のため、官僚出身者在官地位のまま満鉄役職員就任することが認められた。 開業1907年4月1日となった南満洲鉄道は、都市炭坑製鉄所から農地までを経営し独占的な商事部門有し、さらに大学以下の教育機関研究所擁していた。日本租借地である関東州および南満洲鉄道附属地行政たずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線配置されるようになった。なお、ポーツマス条約合意されていた東清鉄道南満洲支線譲渡範囲長春寛城子以南であったが、寛城子接受地点が明確でなかったこと、日露間の鉄道連絡方法未定であったことから、さしあたり孟家屯以南日本譲渡され寛城子・孟家屯間の約8キロメートル日本譲渡されるのは、満鉄開業後、1907年7月21日日露満洲鉄道接続業務条約調印されてからであった総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営展開し部下中村是公とともに戦争中狭軌直して使用したレール改築をともなう満鉄全線国際標準軌化や大連奉天間の複線工事撫順線と安奉線改築工事急ピッチで進め一方あわせて撫順炭坑拡張大連港拡張上海航路開設鉄道附属地内各都市社会資本整備などを強力に推し進めた1907年10月には星野錫により「満洲日日新聞」が大連創刊され1907年8月以降鉄道沿線にはヤマトホテル開業した大連には、満鉄中央試験所、電気公園つくられた。中央試験所は満鉄直営中国東北における農業生産力の向上と生産品加工食品工業進展のための施設であった電気公園は、電気仕掛けによる娯楽施設で、当時内地にもこれに類した施設はなかった。 こうして、満鉄国策遂行する株式会社位置づけられ、その機軸においては文飾武備」が唱えられた。すなわち、満鉄単なる鉄道会社ではなく満洲の地で教育衛生学術など広義文化的諸施設駆使して植民地統治おこない、緊急の事態には武断行動援助する便を講じることができること方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部組織され調査活動重視されたのであった後藤新平は「午前8時の男でやろう」というスローガン掲げ台湾総督府時代からの腹心当時40歳中村是公副総裁抜擢したほか、30代40代優秀な人材理事はじめ要職採用した三井物産門司支店長だった犬塚信太郎未だ32歳という若さ理事スカウトされた。

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設立と営業開始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)

南満州鉄道」の記事における「設立と営業開始」の解説

1906年11月1日満鉄設立逓信大臣より認可された。11月26日南満洲鉄道株式会社半官半民によって設立され同日創立総会神田区東京キリスト教青年会会館において開催された。初代総裁には台湾総督府民政長官だった後藤新平任じられた。設立上述通り勅令基づいてなされ、総裁勅任資本金は2億円であった。しかし、政府日露戦争戦費の処理と軍拡財源捻出苦しんでおり、巨額資金を出すことはできなかった。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および撫順炭田煙台炭田などの現物出資とした。残り1億円は、日清両国出資とされたが、満鉄設立不当とする清国参加せず民間からの投資日本での株式募集2000万円、のこり8000万円外資による社債賄うこととした。当時日本人満鉄寄せた期待大きく第1回株式募集応募殺到したのは上述のとおりである。一方外債募集は、1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場求められた。イギリス調達したのは600ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府支援があったにもかかわらず条件合わず外債募集不成立終わった政府による事業資金日本興業銀行から社債などのかたちで投資され満鉄への投資は同銀行対外投資総額の約7割を占めていた。ところが実は、興業銀行関係対外投資74パーセント輸入外資頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった。その点では英米金融資本への従属生じており、一見資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況みられる後藤新平満鉄総裁推挙したのは、台湾総督在任のまま満洲軍総参謀長となった児玉源太郎であった後藤は、当初満鉄総裁就任固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉1906年7月急逝したので、これを天命考え児玉遺志引き継ぐ決心をして総裁職引き受けたといわれる後藤台湾経営での辣腕ぶりが評価され低コストでの満洲経営山縣伊藤らの元老立憲政友会西園寺公望原敬ら)といった人びとからも期待された。日露戦争後満洲は、いわゆる三頭政治」(関東都督府奉天総領事館南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営主導権争われていたが、日本領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの混乱の原因があった。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現期待された。後藤は、満鉄監督官庁である関東都督府干渉によって満鉄自由に活動できないこと懸念し総裁就任条件として、満鉄総裁関東都督府最高顧問兼任することで西園寺首相合意したまた、人材確保のため、官僚出身者在官地位のまま満鉄役職員就任することが認められた。 開業1907年4月1日となった南満洲鉄道は、都市炭坑製鉄所から農地までを経営し独占的な商事部門有し、さらに大学以下の教育機関研究所擁していた。日本租借地である関東州および南満州鉄道附属地行政たずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線配置されるようになった。なお、ポーツマス条約合意されていた東清鉄道南満洲支線譲渡範囲長春寛城子以南であったが、寛城子接受地点が明確でなかったこと、日露間の鉄道連絡方法未定であったことから、さしあたり孟家屯以南日本譲渡され寛城子・孟家屯間の約8キロメートル日本譲渡されるのは、満鉄開業後、1907年7月21日日露満洲鉄道接続業務条約調印されてからであった総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営展開し部下中村是公とともに戦争中狭軌直して使用したレール改築をともなう満鉄全線国際標準軌化や大連奉天間の複線工事撫順線と安奉線改築工事急ピッチで進め一方あわせて撫順炭坑拡張大連港拡張上海航路開設鉄道附属地内各都市社会資本整備などを強力に推し進めた1907年10月には星野錫により「満洲日日新聞」が大連創刊され1907年8月以降鉄道沿線にはヤマトホテル開業した大連には、満鉄中央試験所、電気公園つくられた。中央試験所は満鉄直営中国東北における農業生産力の向上と生産品加工食品工業進展のための施設であった電気公園は、電気仕掛けによる娯楽施設で、当時内地にもこれに類した施設はなかった。 こうして、満鉄国策遂行する株式会社位置づけられ、その機軸においては文飾武備」が唱えられた。すなわち、満鉄単なる鉄道会社ではなく満洲の地で教育衛生学術など広義文化的諸施設駆使して植民地統治おこない、緊急の事態には武断行動援助する便を講じることができること方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部組織され調査活動重視されたのであった後藤新平は「午前8時の男でやろう」というスローガン掲げ台湾総督府時代からの腹心当時40歳中村是公副総裁抜擢したほか、30代40代優秀な人材理事はじめ要職採用した三井物産門司支店長だった犬塚信太郎未だ32歳という若さ理事スカウトされた。

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