設立と営業開始
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1906年11月1日、満鉄の設立が逓信大臣より認可された。11月26日、南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、同日の創立総会は神田区の東京キリスト教青年会会館において開催された。初代総裁には台湾総督府民政長官だった後藤新平が任じられた。設立は上述の通り、勅令に基づいてなされ、総裁は勅任、資本金は2億円であった。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および撫順炭田・煙台炭田などの現物出資とした。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず、民間からの投資は日本での株式募集が2000万円、のこり8000万円は外資による社債で賄うこととした。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集で応募が殺到したのは上述のとおりである。一方、外債募集は、1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった。政府による事業資金は日本興業銀行から社債などのかたちで投資され、満鉄への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる。 後藤新平を満鉄総裁に推挙したのは、台湾総督在任のまま満洲軍総参謀長となった児玉源太郎であった。後藤は、当初満鉄総裁就任を固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉が1906年7月に急逝したので、これを天命と考え、児玉の遺志を引き継ぐ決心をして総裁職を引き受けたといわれる。後藤は台湾経営での辣腕ぶりが評価され、低コストでの満洲経営を山縣・伊藤らの元老や立憲政友会(西園寺公望、原敬ら)といった人びとからも期待された。日露戦争後の満洲は、いわゆる「三頭政治」(関東都督府、奉天総領事館、南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営の主導権が争われていたが、日本領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの混乱の原因があった。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現が期待された。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで西園寺首相と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。 開業は1907年4月1日となった。南満洲鉄道は、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関・研究所も擁していた。日本租借地である関東州および南満洲鉄道附属地の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線に配置されるようになった。なお、ポーツマス条約で合意されていた東清鉄道南満洲支線の譲渡範囲は長春の寛城子以南であったが、寛城子の接受地点が明確でなかったこと、日露間の鉄道連絡方法も未定であったことから、さしあたり孟家屯以南が日本に譲渡され、寛城子・孟家屯間の約8キロメートルが日本に譲渡されるのは、満鉄開業後、1907年7月21日に日露満洲鉄道接続業務条約が調印されてからであった。 総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営を展開し、部下の中村是公とともに、戦争中に狭軌に直して使用したレールの改築をともなう満鉄全線の国際標準軌化や大連・奉天間の複線工事、撫順線と安奉線の改築工事を急ピッチで進める一方、あわせて、撫順炭坑の拡張、大連港の拡張と上海航路の開設、鉄道附属地内各都市の社会資本整備などを強力に推し進めた。1907年10月には星野錫により「満洲日日新聞」が大連で創刊され、1907年8月以降、鉄道沿線にはヤマトホテルが開業した。大連には、満鉄中央試験所、電気公園もつくられた。中央試験所は満鉄直営で中国東北における農業生産力の向上と生産品の加工、食品工業の進展のための施設であった。電気公園は、電気仕掛けによる娯楽施設で、当時の内地にもこれに類した施設はなかった。 こうして、満鉄は国策を遂行する株式会社に位置づけられ、その機軸においては「文飾的武備」が唱えられた。すなわち、満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術など広義の文化的諸施設を駆使して植民地統治をおこない、緊急の事態には武断的行動を援助する便を講じることができることを方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部が組織され、調査活動が重視されたのであった。後藤新平は「午前8時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代からの腹心で当時40歳の中村是公を副総裁に抜擢したほか、30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職に採用した。三井物産門司支店長だった犬塚信太郎は未だ32歳という若さで理事にスカウトされた。
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設立と営業開始
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1906年11月1日、満鉄の設立が逓信大臣より認可された。11月26日、南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、同日の創立総会は神田区の東京キリスト教青年会会館において開催された。初代総裁には台湾総督府民政長官だった後藤新平が任じられた。設立は上述の通り、勅令に基づいてなされ、総裁は勅任、資本金は2億円であった。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および撫順炭田・煙台炭田などの現物出資とした。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず、民間からの投資は日本での株式募集が2000万円、のこり8000万円は外資による社債で賄うこととした。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集で応募が殺到したのは上述のとおりである。一方、外債募集は、1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった。政府による事業資金は日本興業銀行から社債などのかたちで投資され、満鉄への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる。 後藤新平を満鉄総裁に推挙したのは、台湾総督在任のまま満洲軍総参謀長となった児玉源太郎であった。後藤は、当初満鉄総裁就任を固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉が1906年7月に急逝したので、これを天命と考え、児玉の遺志を引き継ぐ決心をして総裁職を引き受けたといわれる。後藤は台湾経営での辣腕ぶりが評価され、低コストでの満洲経営を山縣・伊藤らの元老や立憲政友会(西園寺公望、原敬ら)といった人びとからも期待された。日露戦争後の満洲は、いわゆる「三頭政治」(関東都督府、奉天総領事館、南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営の主導権が争われていたが、日本領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの混乱の原因があった。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現が期待された。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで西園寺首相と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。 開業は1907年4月1日となった。南満洲鉄道は、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関・研究所も擁していた。日本租借地である関東州および南満州鉄道附属地の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線に配置されるようになった。なお、ポーツマス条約で合意されていた東清鉄道南満洲支線の譲渡範囲は長春の寛城子以南であったが、寛城子の接受地点が明確でなかったこと、日露間の鉄道連絡方法も未定であったことから、さしあたり孟家屯以南が日本に譲渡され、寛城子・孟家屯間の約8キロメートルが日本に譲渡されるのは、満鉄開業後、1907年7月21日に日露満洲鉄道接続業務条約が調印されてからであった。 総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営を展開し、部下の中村是公とともに、戦争中に狭軌に直して使用したレールの改築をともなう満鉄全線の国際標準軌化や大連・奉天間の複線工事、撫順線と安奉線の改築工事を急ピッチで進める一方、あわせて、撫順炭坑の拡張、大連港の拡張と上海航路の開設、鉄道附属地内各都市の社会資本整備などを強力に推し進めた。1907年10月には星野錫により「満洲日日新聞」が大連で創刊され、1907年8月以降、鉄道沿線にはヤマトホテルが開業した。大連には、満鉄中央試験所、電気公園もつくられた。中央試験所は満鉄直営で中国東北における農業生産力の向上と生産品の加工、食品工業の進展のための施設であった。電気公園は、電気仕掛けによる娯楽施設で、当時の内地にもこれに類した施設はなかった。 こうして、満鉄は国策を遂行する株式会社に位置づけられ、その機軸においては「文飾的武備」が唱えられた。すなわち、満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術など広義の文化的諸施設を駆使して植民地統治をおこない、緊急の事態には武断的行動を援助する便を講じることができることを方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部が組織され、調査活動が重視されたのであった。後藤新平は「午前8時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代からの腹心で当時40歳の中村是公を副総裁に抜擢したほか、30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職に採用した。三井物産門司支店長だった犬塚信太郎は未だ32歳という若さで理事にスカウトされた。
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