設立と営業の拡大
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以上を背景に三次銀行は1921年(大正10年)12月30日に双三郡三次町(現・三次市)に資本金1,000,000円、払込資本金250,000円をもって設立され、翌1922年.3月に三次の本店のほか十日市(現・三次市)に支店をおき開業した。初代頭取には当行の設立に奔走した一人で、双三郡でも有数の大地主で三次貯蓄銀行の役員も歴任していた中村修一が就任し、他の吉中は副頭取、吉中は専務に就いた。その後島根県下の2支店を含む7支店を増設し、1927年(昭和2年)には三次中町に鉄筋コンクリート造の本店を新築するなど営業を拡大した。1931年6月に三次実業銀行が破産宣告を受け解散に追い込まれると、当行は三次に唯一本店をおく銀行として地元の信頼を得て堅調な経営を維持し、1937年時点で県下に本店をもつ5行の一つとなった。
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設立と営業の拡大
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「広島合同貯蓄銀行」の記事における「設立と営業の拡大」の解説
県下から貯蓄銀行が消滅する事態に直面すると、広島県は貯蓄奨励の観点から県内銀行の合同出資による新たな貯蓄銀行の設立を呼びかけ、これに応じて1921年10月には県下の有力財界人21名が県庁で会同して新銀行の設立を協議した。そして同年12月には設立発起人会が開催されて沢原銀行頭取であった沢原俊雄が頭取に選ばれ、広島合同貯蓄銀行が設立されることになった。設立時の資本金は1,000,000円、払込金は500,000円であり、翌1922年1月に銀山町13番地に本店をおき開業した。しかし設立から開業に至る期間がきわめて短かったために準備が十分に整わず、開業時の営業は本店のみで行い、県下14行の104店を代理店として委託し、さらに役員も芸備銀行・沢原銀行からの応援を得た。 その後当行は1924年(大正13年)には呉・福山・尾道の3支店を設置するなど店舗を整備し、本店も上流川町への移転を経て、業務拡大にともなって1937年(昭和12年)10月、下柳町に新築移転した。この間、1927年4月の金融恐慌に際しては本店および代理店が取り付けに見まわれたが、沢原頭取らの広告によって預金者を安心させ危機を脱することができた。これにより当行は昭和期に入って急速に業績を伸ばすに至った。
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