戦争と奴隷制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 16:24 UTC 版)
「ニュージャージー州の歴史」の記事における「戦争と奴隷制」の解説
米墨戦争の時、ニュージャージーからは4個中隊からなる志願兵代替が1847年9月から1848年7月まで従軍した。騎兵隊を率いた士官のフィリップ・カーニーはウィンフィールド・スコット将軍に従い、コントレラスの戦いやチュルブスコの戦いに参加した。戦後、カーニーはニュージャージー州を本拠とした。 クエーカー教徒が特に奴隷制に反対しており、ニュージャージー州は地下鉄道の重要な拠点となった。1804年に段階的な奴隷制度廃止の法律を通したが、ほとんどの黒人が解放されたのは1830年だった。ニュージャージー州は奴隷制度を完全に廃止することでは北部で最後の州となり、南北戦争が終わるまで、1ダースほどのアフリカ系アメリカ人が年季奉公を続けていた。ニュージャージー州は合衆国憲法修正第13条、すなわち奴隷制度を禁じる条項の批准を拒否したのでは最初の州になった。 ニュージャージー州では南北戦争の戦闘は無かったが、31の歩兵および騎兵連隊に88,000名の兵士を送り出し、6,000名以上が戦争中に亡くなった。これら兵士のうち23,116名はポトマックの軍隊に従軍した。ニュージャージー州出身の兵士は主に東部戦線で戦った。米墨戦争以来の士官フィリップ・カーニーはウィリアム・B・フランクリン准将の下でニュージャージー連隊の旅団を率いた。カーニーは半島方面作戦で輝かしい戦歴を残したことで際だち、少将に昇進した。 ニュージャージー州は1860年の大統領選挙でエイブラハム・リンカーンではなく、スティーブン・ダグラスを推した数少ない州の一つであった。1864年の大統領選挙では、リンカーンに対抗するジョージ・マクレランを推す選挙人に投票した。リンカーンを2度までも拒否した唯一の自由州となった。マクレランは後に州知事となり、1878年から1881年まで務めた。 パターソンやカムデンのような工業都市は南北戦争の間も極めて成長を続けた。そこでは戦争に必要な衣類や弾薬が作られた。戦後も大量生産によって繁栄した。
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