黄海海戦とは? わかりやすく解説

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黄海海戦


黄海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/06/21 12:49 UTC 版)

黄海海戦(こうかいかいせん)




「黄海海戦」の続きの解説一覧

黄海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/14 16:03 UTC 版)

丁字戦法」の記事における「黄海海戦」の解説

旅順脱出しようとしたロシア艦隊対し連合艦隊二度丁字形作った二度目後尾から抜けられ、それに対す回頭遅れたために後方から追いかける不利な体勢になってしまった。連合艦隊司令長官東郷平八郎連合艦隊参謀であった秋山真之はこの失敗が後の日本海海戦生かされたと語っている。

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黄海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 22:02 UTC 版)

大日本帝国海軍の歴史」の記事における「黄海海戦」の解説

詳細は「黄海海戦 (日清戦争)」を参照 大本営の「作戦大方針」では、海軍が清の北洋艦隊掃討制海権掌握を担うとされていた。北洋艦隊司令長官丁汝昌決戦望んでいたが、直隷総督李鴻章北洋艦隊勝ち目は無いと考え山東半島頂点鴨緑江口を結ぶ線から東方への出撃禁止していた。しかし、主戦派の翁同龢等がこの方針を批判出撃強要し光緒帝もこれに同意した9月16日北洋艦隊陸兵輸送護衛のため大連湾出港、この情報得た連合艦隊朝鮮半島西端仮泊地を出港した連合艦隊は、坪井少将率い快速防護巡洋艦4隻からなる第一遊撃隊吉野高千穂常備:3,709トン)、秋津洲浪速)と、伊東中将が直率する本隊分かれていた。本隊ベルタン設計の4隻(松島型3隻、千代田)と旧式装甲艦2隻(比叡扶桑)から構成されていた。加えて樺山資紀軍令部長乗せた西京丸浅海偵察担当赤城随伴していた。翌17日10時頃に連合艦隊北洋艦隊発見午後1時頃から戦闘開始された。 連合艦隊第一遊撃隊本隊の順にそれぞれ単縦陣構成し10隻中6隻が中口速射砲合計12 cm速射砲60門、15.2 cm速射砲8門)を装備し8インチ上の大口径砲合計11門、中口通常砲が合計16であった対す北洋艦隊定遠鎮遠中央10隻が横陣敷き8インチ上の大口径砲合計24門と連合艦隊上回っていたが、中口速射砲装備しておらず、中口通常砲も合計28門にすぎなかった。北洋艦隊日本艦隊正面に見つつ砲撃機会捉えて衝角攻撃実施する作戦であった先行する遊撃隊は7ノット程度航行する北洋艦隊西側をその倍の速度北上時計回りに東に進路変えつつ、右翼の揚威及び超勇に攻撃集中した多数命中弾を受けた超勇は沈没、揚威も大破座礁した遊撃隊北東方向にあった北洋艦隊別働隊けん制するために左に転進し北上再度左に転進して西に向かった後に本隊合流するべく左に転進し南下した後続する本隊は、10ノット程度速度保ちつつ砲撃続けそのまま時計回りに敵の背後に回る。この間丁汝昌負傷定遠主砲発射衝撃説と日本軍砲撃説がある)し、また旗艦定遠信号マスト折れたため、それ以降北洋艦隊艦隊行動がとれず、各艦が個別戦闘することとなった遊撃部隊本隊から離れてしまった比叡赤城救援するために反転北上し、さらに西に転進し北洋艦隊周り反時計回り周回しつつ砲撃行ったため、北洋艦隊本隊遊撃部隊から十字砲火を受ける形となった北洋艦隊最左翼にあった済遠と広甲は戦場から逃走このため最左翼となった致遠は猛射受けて大損害を受けながらも、衝角攻撃のため吉野突撃敢行したが沈没した残った3隻の巡洋艦戦場から離脱試みるが、遊撃隊はこれを追跡、経遠を撃沈した他方本隊残った定遠鎮遠への攻撃続けるが、厚い装甲守られた両艦は沈まず逆に鎮遠30.5cm砲弾が松島命中松島旗艦機能損失した。このため旗艦橋立移したが、この間定遠鎮遠戦場から離脱した速射砲威力大きく北洋艦隊記録のある5隻だけでも被弾729発、対す連合艦隊遊撃隊4隻・26発、本隊6隻・66発で、意図せず戦闘巻き込まれ赤城30発、西京丸12 発の合計134発に過ぎなかった。

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黄海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 22:02 UTC 版)

大日本帝国海軍の歴史」の記事における「黄海海戦」の解説

詳細は「黄海海戦 (日露戦争)」および「蔚山沖海戦」を参照 マカロフ後任となったヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将艦隊温存策をとったが、第3軍旅順に迫ると陸上からの砲撃艦艇被害出始めた。このためヴィトゲフトは旅順艦隊戦艦6隻、防護巡洋艦4隻他)をウラジオストク回航することを決定8月10日出港した6月23日にも旅順艦隊出撃していたが、連合艦隊遭遇するとすぐに旅順引き返していた。このため連合艦隊戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻、防護巡洋艦10隻他)は、旅順艦隊が十分沖に出るまで待ち1310分から攻撃開始した東郷が直卒す第一戦隊(戦艦4、装甲巡洋艦2)は敵主力戦艦隊の前面を横切る丁字戦法試みたが、遠距離から砲戦となったため命中弾は少なく、また旅順艦隊が引き返すことを警戒し過ぎたこともあり、ウラジオストクへの脱出目指す旅順艦隊に一旦は逃げられてしまった。速度に勝る連合艦隊はこれを追撃したが、旅順艦隊捕捉砲撃再開できたのは17時30になってからであった1840分、旗艦ツェサレーヴィチ艦橋に2発の砲弾直撃しヴィトゲフトが戦死舵手倒れたツェサレーヴィチは左に急旋回したため旅順艦隊統一した艦隊行動取れなくなり四散した連合艦隊四散しながら南下する旅順艦隊攻撃し夜間には水雷攻撃行ったがこれは失敗したその後ツェサレーヴィチドイツ領の膠州湾租借地逃げ込み残り5隻の戦艦はなんとか旅順帰還した旅順では各艦の損害修復することが出来ず艦隊としての戦闘能力失われた。しかし日本側はこれを察知できず、旅順陥落まで沖合い監視行動続けた旅順艦隊出撃知ったウラジオストク巡洋艦隊装甲巡洋艦3隻)は旅順艦隊援護すべく出撃したが、8月14日第二艦隊装甲巡洋艦4隻、防護巡洋艦4隻)に蔚山沖で捕捉され撃破された。

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黄海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 09:40 UTC 版)

劉歩蟾」の記事における「黄海海戦」の解説

1894年日清戦争勃発前、劉歩蟾は、日本海軍発展させており、それに対抗するために北洋艦隊新しい艦を毎年導入しなければならないと、李鴻章繰り返し伝えていた。しかし、李鴻章は、当時の政治状況の中では北洋艦隊のために艦艇や砲を増やすことができなかった。日清戦争勃発後の9月17日北洋艦隊黄海日本艦隊遭遇し、黄海海戦が始まった劉歩蟾艦長務める「定遠」が清国海軍主力だった。昼から午後まで続いた戦いで、「定遠」は多数被弾受けた戦闘開始時に提督丁汝昌重傷負ったため、実質的に劉歩蟾艦隊指揮を執っていた。劉歩蟾は、「艦を失った時には自決する」と誓い立てて、少しも後退することがなかった。黄海海戦の後、提督昇進した1895年2月4日日本魚雷艇威海威を攻撃し、「定遠」は被弾浸水し擱座した。「定遠」はそれでも砲台として砲撃続け何度かの日本攻撃撃退した2月9日日本陸軍海岸砲台占領し、そこからの砲撃受けて定遠」は損傷した。劉公島の陥落目前にして、劉歩蟾日本軍による鹵獲を防ぐために「定遠」を自沈させた。同日の夜、劉歩蟾アヘン服用して自決した清朝政府遺族賞恤金支払った

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黄海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)

日清戦争」の記事における「黄海海戦」の解説

詳細は「黄海海戦 (日清戦争)」を参照 大本営の「作戦大方針」では、海軍が清の北洋艦隊掃討制海権掌握を担うとされていた。しかし、持久戦西洋列強介入講和持ち込みたい李鴻章は、北洋艦隊丁汝昌提督対し近海防御戦力温存指示していた。このため海軍軍令部長樺山資紀海軍中将西京丸最前線黄海まで偵察に出るなど、日本海軍艦隊決戦機会中々恵まれなかった。 9月16日午前1時近く陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、母港威海衛から出てきていた北洋艦隊大連湾離れた(艦14隻と水雷艇4隻)。同日狐山での陸兵上陸支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合訓練をしていた。午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊遭遇した(両艦隊とも煙で発見)。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻が前に連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率い本隊6隻が後ろになる単縦陣とっていた(ほかの2隻、樺山軍令部長乗せた西京丸と「赤城」も、予定異なり戦闘巻き込まれた)。12時50分、横陣をとる北洋艦隊旗艦定遠」の30.5センチ砲が火を噴き戦端開かれた(距離6,000m)。 海戦結果、無装甲艦の多い連合艦隊は、全艦が被弾したものの、旗艦松島」など4隻の大・中破にとどまった(「赤城」の艦長坂元八郎太海軍少佐をはじめ戦死90人、負傷197人。被弾134発。ただし船体貫通しただけの命中弾が多かった)。装甲艦主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した。 なお海戦後北洋艦隊残存艦艇威海衛閉じこもったため、日本制海権をほぼ掌握した後日制海権を完全に掌握するため、威海衛攻略目指されることとなる)。

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