黄海海戦
黄海海戦
黄海海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/14 16:03 UTC 版)
旅順を脱出しようとしたロシア艦隊に対し、連合艦隊は二度丁字を形作ったが二度目に後尾から抜けられ、それに対する回頭が遅れたために後方から追いかける不利な体勢になってしまった。連合艦隊司令長官の東郷平八郎と連合艦隊参謀であった秋山真之はこの失敗が後の日本海海戦で生かされたと語っている。
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黄海海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 22:02 UTC 版)
「大日本帝国海軍の歴史」の記事における「黄海海戦」の解説
詳細は「黄海海戦 (日清戦争)」を参照 大本営の「作戦大方針」では、海軍が清の北洋艦隊掃討と制海権掌握を担うとされていた。北洋艦隊司令長官の丁汝昌は決戦を望んでいたが、直隷総督李鴻章は北洋艦隊に勝ち目は無いと考え、山東半島の頂点と鴨緑江口を結ぶ線から東方への出撃を禁止していた。しかし、主戦派の翁同龢等がこの方針を批判、出撃を強要し光緒帝もこれに同意した。9月16日、北洋艦隊は陸兵輸送の護衛のため大連湾を出港、この情報を得た連合艦隊も朝鮮半島最西端の仮泊地を出港した。連合艦隊は、坪井少将が率いる快速の防護巡洋艦4隻からなる第一遊撃隊(吉野、高千穂(常備:3,709トン)、秋津洲、浪速)と、伊東中将が直率する本隊に分かれていた。本隊はベルタン設計の4隻(松島型3隻、千代田)と旧式の装甲艦2隻(比叡、扶桑)から構成されていた。加えて、樺山資紀軍令部長を乗せた西京丸と浅海面偵察担当の赤城が随伴していた。翌17日10時頃に連合艦隊は北洋艦隊を発見、午後1時頃から戦闘が開始された。 連合艦隊は第一遊撃隊、本隊の順にそれぞれ単縦陣を構成し、10隻中6隻が中口径速射砲(合計で12 cm速射砲60門、15.2 cm速射砲8門)を装備し、8インチ以上の大口径砲は合計11門、中口径通常砲が合計16門であった。対する北洋艦隊は定遠・鎮遠を中央に10隻が横陣を敷き、8インチ以上の大口径砲は合計24門と連合艦隊を上回っていたが、中口径速射砲は装備しておらず、中口径通常砲も合計28門にすぎなかった。北洋艦隊は日本艦隊を正面に見つつ砲撃、機会を捉えて衝角攻撃を実施する作戦であった。先行する遊撃隊は7ノット程度で航行する北洋艦隊の西側をその倍の速度で北上、時計回りに東に進路を変えつつ、右翼の揚威及び超勇に攻撃を集中した。多数の命中弾を受けた超勇は沈没、揚威も大破・座礁した。遊撃隊は北東方向にあった北洋艦隊別働隊をけん制するために左に転進し北上、再度左に転進して西に向かった後に本隊に合流するべく左に転進して南下した。後続する本隊は、10ノット程度の速度を保ちつつ砲撃を続け、そのまま時計回りに敵の背後に回る。この間に丁汝昌は負傷(定遠の主砲発射の衝撃説と日本軍の砲撃説がある)し、また旗艦・定遠の信号マストが折れたため、それ以降北洋艦隊は艦隊行動がとれず、各艦が個別に戦闘することとなった。遊撃部隊は本隊から離れてしまった比叡と赤城を救援するために反転北上し、さらに西に転進して北洋艦隊の周りを反時計回り周回しつつ砲撃を行ったため、北洋艦隊は本隊・遊撃部隊から十字砲火を受ける形となった。北洋艦隊最左翼にあった済遠と広甲は戦場から逃走、このため最左翼となった致遠は猛射を受けて大損害を受けながらも、衝角攻撃のため吉野に突撃を敢行したが沈没した。残った3隻の巡洋艦は戦場から離脱を試みるが、遊撃隊はこれを追跡、経遠を撃沈した。他方、本隊は残った定遠・鎮遠への攻撃を続けるが、厚い装甲に守られた両艦は沈まず、逆に鎮遠の30.5cm砲弾が松島に命中、松島は旗艦機能を損失した。このため旗艦を橋立に移したが、この間に定遠・鎮遠は戦場から離脱した。速射砲の威力は大きく、北洋艦隊は記録のある5隻だけでも被弾数729発、対する連合艦隊は遊撃隊4隻・26発、本隊6隻・66発で、意図せず戦闘に巻き込まれた赤城が30発、西京丸が12 発の合計134発に過ぎなかった。
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黄海海戦
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「大日本帝国海軍の歴史」の記事における「黄海海戦」の解説
詳細は「黄海海戦 (日露戦争)」および「蔚山沖海戦」を参照 マカロフの後任となったヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将は艦隊温存策をとったが、第3軍が旅順に迫ると陸上からの砲撃で艦艇に被害が出始めた。このためヴィトゲフトは旅順艦隊(戦艦6隻、防護巡洋艦4隻他)をウラジオストクに回航することを決定、8月10日に出港した。6月23日にも旅順艦隊は出撃していたが、連合艦隊に遭遇するとすぐに旅順に引き返していた。このため、連合艦隊(戦艦4隻、装甲巡洋艦4隻、防護巡洋艦10隻他)は、旅順艦隊が十分沖に出るまで待ち13時10分から攻撃を開始した。東郷が直卒する第一戦隊(戦艦4、装甲巡洋艦2)は敵主力戦艦隊の前面を横切る丁字戦法を試みたが、遠距離からの砲戦となったため命中弾は少なく、また旅順艦隊が引き返すことを警戒し過ぎたこともあり、ウラジオストクへの脱出を目指す旅順艦隊に一旦は逃げられてしまった。速度に勝る連合艦隊はこれを追撃したが、旅順艦隊を捕捉・砲撃を再開できたのは17時30分になってからであった。18時40分、旗艦ツェサレーヴィチの艦橋に2発の砲弾が直撃しヴィトゲフトが戦死、舵手も倒れたツェサレーヴィチは左に急旋回したため、旅順艦隊は統一した艦隊行動を取れなくなり四散した。連合艦隊は四散しながら南下する旅順艦隊を攻撃し夜間には水雷攻撃を行ったがこれは失敗した。その後ツェサレーヴィチはドイツ領の膠州湾租借地に逃げ込み、残り5隻の戦艦はなんとか旅順に帰還した。旅順では各艦の損害を修復することが出来ず、艦隊としての戦闘能力は失われた。しかし日本側はこれを察知できず、旅順陥落まで沖合いで監視行動を続けた。 旅順艦隊出撃を知ったウラジオストク巡洋艦隊(装甲巡洋艦3隻)は旅順艦隊を援護すべく出撃したが、8月14日に第二艦隊(装甲巡洋艦4隻、防護巡洋艦4隻)に蔚山沖で捕捉され撃破された。
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黄海海戦
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1894年の日清戦争勃発前、劉歩蟾は、日本が海軍を発展させており、それに対抗するために北洋艦隊に新しい艦を毎年導入しなければならないと、李鴻章に繰り返し伝えていた。しかし、李鴻章は、当時の政治状況の中では北洋艦隊のために艦艇や砲を増やすことができなかった。日清戦争が勃発後の9月17日、北洋艦隊は黄海で日本艦隊と遭遇し、黄海海戦が始まった。 劉歩蟾が艦長を務める「定遠」が清国海軍の主力だった。昼から午後まで続いた戦いで、「定遠」は多数の被弾を受けた。戦闘開始時に提督の丁汝昌が重傷を負ったため、実質的に劉歩蟾が艦隊の指揮を執っていた。劉歩蟾は、「艦を失った時には自決する」と誓いを立てて、少しも後退することがなかった。黄海海戦の後、提督に昇進した。 1895年2月4日、日本の魚雷艇が威海威を攻撃し、「定遠」は被弾・浸水し擱座した。「定遠」はそれでも砲台として砲撃を続け、何度かの日本の攻撃を撃退した。2月9日、日本陸軍が海岸の砲台を占領し、そこからの砲撃を受けて「定遠」は損傷した。劉公島の陥落を目前にして、劉歩蟾は日本軍による鹵獲を防ぐために「定遠」を自沈させた。同日の夜、劉歩蟾はアヘンを服用して自決した。清朝政府は遺族に賞恤金を支払った。
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黄海海戦
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詳細は「黄海海戦 (日清戦争)」を参照 大本営の「作戦大方針」では、海軍が清の北洋艦隊掃討と制海権掌握を担うとされていた。しかし、持久戦と西洋列強の介入で講和に持ち込みたい李鴻章は、北洋艦隊の丁汝昌提督に対し、近海防御と戦力温存を指示していた。このため、海軍軍令部長樺山資紀海軍中将が西京丸で最前線の黄海まで偵察に出るなど、日本海軍は艦隊決戦の機会に中々恵まれなかった。 9月16日午前1時近く、陸兵4,000人が分乗する輸送船5隻を護衛するため、母港威海衛から出てきていた北洋艦隊が大連湾を離れた(艦14隻と水雷艇4隻)。同日大狐山での陸兵上陸を支援した北洋艦隊は、翌17日午前から大狐山沖合で訓練をしていた。午前10時過ぎ、索敵中の連合艦隊と遭遇した(両艦隊とも煙で発見)。連合艦隊は、第一遊撃隊司令官坪井航三海軍少将率いる4隻が前に、連合艦隊司令長官伊東祐亨海軍中将率いる本隊6隻が後ろになる単縦陣をとっていた(ほかの2隻、樺山軍令部長を乗せた西京丸と「赤城」も、予定と異なり戦闘に巻き込まれた)。12時50分、横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5センチ砲が火を噴き、戦端が開かれた(距離6,000m)。 海戦の結果、無装甲艦の多い連合艦隊は、全艦が被弾したものの、旗艦「松島」など4隻の大・中破にとどまった(「赤城」の艦長坂元八郎太海軍少佐をはじめ戦死90人、負傷197人。被弾134発。ただし船体を貫通しただけの命中弾が多かった)。装甲艦を主力とする北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾したと見られ、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没し、6隻が大・中破、「揚威」「広甲」が擱座した。 なお海戦後、北洋艦隊の残存艦艇が威海衛に閉じこもったため、日本が制海権をほぼ掌握した(後日、制海権を完全に掌握するため、威海衛攻略が目指されることとなる)。
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