教皇派アンセルムス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 09:56 UTC 版)
「イングランド教会史」の記事における「教皇派アンセルムス」の解説
ランフランクの後継者であるアンセルムスは前任者とは対照的に、ローマ教皇に忠実な人物であった。しかし瀬戸一夫はアンセルムスが教皇と国王の間での叙任権闘争に、「聖俗切断」の論理で両者の和解をもたらしつつ、カンタベリー大司教の首位権確立に尽力した人物と見ている。 アンセルムスは明確に教皇首位権を認めていたので、1095年2月のロッキンガム教会会議では、教会に対する国王の干渉を強く非難した。 これに対し、国王ウィリアム2世に忠実なイングランドの司教たちは、逆にアンセルムスに教皇への服従を放棄するよう忠告した。 つづくヘンリー1世は聖職叙任に関して教皇とアンセルムスに歩み寄り、1107年ロンドン協約を結んだ。ヘンリーがこのような妥協に踏み切ったのは、当時ノルマンディー公ロベール2世がイングランド王位に野心を持ち、自らの王位を維持するために高位聖職者の協力が必要だったためである。そこでは国王や俗人から聖職者が叙任されることは原則的に禁じられた一方、国王に対する臣従宣誓を理由として司教叙任を拒んではならないという規則が設けられた。これによってイングランド国王は教会に対する実質的な影響力を維持した。 しかしながら、1114年のカンタベリー大司教選挙において、国王が推薦する候補が落選するなど、国王の教会政策に一定の疑問が投げかけられる結果をもたらした。
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