イタリアにおける勢力拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 08:41 UTC 版)
「ゴットフリート3世 (ロートリンゲン公)」の記事における「イタリアにおける勢力拡大」の解説
1054年、先妻ドダに先立たれていたゴットフリートは、夫トスカーナ辺境伯ボニファーチオ4世を亡くし庇護者を求めていた同じアルデンヌ家出身のベアトリクスと結婚し、トスカーナ辺境伯となった。ゴットフリートはイタリアでの支配権拡大を企て、フィレンツェ市民の暴動を鎮圧した後、エミリア、マルケ、ウンブリアへ出撃し勢力を拡大させていった。これに対しハインリヒ3世は1055年、イタリアへと進軍し、ゴットフリートは妻ベアトリクスとその子マティルデ(先夫との子)らをイタリアに残し、戦わずしてロートリンゲンに逃げ帰り、ベアトリクスとマティルデはハインリヒ3世に捕えられた。しかし翌1056年ハインリヒ3世は死に際して、息子ハインリヒの将来のため、ゴットフリートと和解し、家族と領地の返還を決めた。ゴットフリートはドイツへ向かい、新帝ハインリヒ4世へ臣従を誓う代わりに、ロートリンゲンとトスカーナの領有権を認めさせ、イタリアへ戻った。1057年教皇ウィクトル2世が没すると、フェルモ伯、スポレート公を兼任し、さらに実弟フリードリヒをステファヌス10世として教皇位につけ、イタリア王位を狙ったが、ステファヌス10世は翌年死去した。ローマ貴族は新教皇としてベネディクトゥス10世を選出した一方、ゴットフリートらはニコラウス2世を選出した。ニコラウス2世はドイツでも承認され、ベネディクトゥス10世は廃位された。さらに1061年にニコラウス2世が死去し、反皇帝派のアレクサンデル2世と皇帝派のホノリウス2世の両者が教皇として選出され対立したが、1062年にゴットフリートは両者の争いに介入し、最終的にはアレクサンデル2世をローマに入れ、正式な教皇とした。
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