トスカーナ辺境伯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 07:23 UTC 版)
「ボゾーネ (トスカーナ辺境伯)」の記事における「トスカーナ辺境伯」の解説
ボゾーネのトスカーナ統治に関する記録はほとんど残っていない。記録のほとんどがルッカおよびアレッツォの教会のために仲裁を行ったことについてである。トスカーナ辺境伯としてのボゾーネの最後の記録は936年9月17日、ルッカ教区による領地の交換を監督するために代理人を送った時のものである。その後、ウードは弟ボゾーネに代えて、自身の庶子であるウベルトをトスカーナ辺境伯とした。 リウトプランドは、ボゾーネが妻ウィラにそそのかされ、王に対する反乱を企てたと疑われ逮捕された、と記述している。他にあり得ることとして、ボゾーネがランベルト同様、領地を独立した形で支配し続けたため、トスカーナを自らの影響力下に置こうとしたウードにより領地を取り上げられたということである。また、ボゾーネは娘ウィラを、当時最も有力な辺境伯の一人であったイヴレーア辺境伯ベレンガーリオ(後にイタリア王)と結婚させた。このことがウードからは脅威ととられ、ボゾーネの没落につながったともみられている。
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