イタリアにおける問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 01:59 UTC 版)
「スロベニアの歴史」の記事における「イタリアにおける問題」の解説
1920年、イタリアのベニート・ムッソリーニが「外国人排斥キャンペーン」を実行したことにより、トリエステのスロベニア民族会館が焼き討ちに遭うなど事態は悪化していた。また、1923年にはスロベニアに隣接するヴェネツィア・ジュリアの学校ではスロベニア語教育が禁止され、スロベニア語の抹殺が図られたため、多くのスロベニア人が他のヨーロッパ地域やラテン・アメリカへ移住する事態も発生していた。さらにムッソリーニはスラヴ語起源の名称を持つ町や村の名称を変更、スラヴ系の姓を持つ家族にも改名をするよう圧力をかけ始めたが、それだけではなくスロベニア人の組織「エディノスト(統一)」も解散させ、スロベニア語の新聞も弾圧させた。このため、イタリアのスロベニア系住民とイタリア政府の関係は悪化、イタリアのファシストたちはスロベニア系文化、経済組織へ襲撃を行ったが、これに対してスロベニア人らは「ボルバ(闘争)」を組織して反対にファシストの建物、人物を襲撃した。 これらの状況の中、イタリアのスロベニア系民族主義者らはユーゴスラビアへの併合を要求したが、イタリア政府はこれを反逆行為として弾圧、1927年から1943年の間に544人のスロベニア人らが131回の裁判にかけられることとなり、10人が死刑を宣告され処刑された。
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