清軍の降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 06:38 UTC 版)
日本艦隊の水雷艇部隊が防材をかわして泊地へ侵入し、北洋艦隊からの砲撃をものともせずに至近距離からの魚雷攻撃による襲撃を敢行するという事態に至って、威海衛湾に安全な場所はないと悟った清軍の水兵は反乱を起こし、清軍の陸兵と清国へ派遣されていた外国人軍事顧問は北洋艦隊の丁提督に降伏を求めた。2月11日、降伏を拒否していた丁提督は李鴻章に宛てて「艦沈ミ人尽キテ後チ己(や)マント決心セシモ、衆心?乱今ヤ奈何(いかん)トモスル能ワサル旨」と決別の打電を行った後に服毒自決した。翌12日には「定遠」艦長と劉公島の地上部隊指揮官も自決した。 抗戦派幹部の自決後、包囲されていた清側は、伊東祐亨連合艦隊司令長官に丁汝昌名義の請降書(2月12日付け)を提出した。14日、清軍の降伏と陸海軍将兵の解放について両軍が合意し、15日に調印が行われた。17日、清の陸兵すべてが日本軍の前哨線外に解放され、商船「康済号」が丁汝昌の亡骸と清国海軍将兵1,000名余りと、清国側の外国人軍事顧問将校を乗せて威海衛湾から出航した。作戦を完了した日本軍は、劉公島だけを保持することとし、砲台など軍事施設を爆破した。作戦に参加した第2・第6の両師団は、第二期作戦にそなえて旅順に移動した。 伊東長官が鹵獲艦船の中から商船「康済号」を外して丁汝昌の亡骸を最大の礼遇をもって扱い、また清の将兵の助命嘆願を容れたことは、当時の世界常識として例を見ない厚遇であった。
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