チベット独立とダライラマ政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)
「チベットの歴史」の記事における「チベット独立とダライラマ政権」の解説
「チベット (1912-1950)」を参照 清が崩壊した1912年から中華人民共和国によるチベット侵攻の1951年まで、チベットのダライ・ラマ政権は、チベットの国土の半ば以上に排他的実効支配を確立(事実上の独立状態)し、国際社会に対し、国家としての独立を求め、イギリスをはじめ、独立国として承認されていた。 辛亥革命と清朝崩壊に続いて、チベット軍は奇襲によってチベットに駐屯していた清国軍守備隊をチベット内から追い払った。続いてラサに駐在していた清の役人はチベット中心部での清軍の降伏と撤退が盛り込まれた「三点合意」にサインを強いられた。ダライ・ラマ13世は1910年に清軍の進攻があって以来インドに逃れていたが、1913年早くにラサに戻った。そして「聖職者をパトロンとした中国人のチベット植民地化の意図」を非難し、「我々は小さい、宗教的な、独立国家である」と述べた、宣言を発布しチベット中に広めた。 1906年に満州人を追い出して漢民族の独立回復をすることを宣言していた孫文を始めとする漢民族による辛亥革命によって、1911年に清が解体され、1912年に中華民国が建国されると臨時大総統に就任した孫文は満洲人の清帝国の領土をそのまま引き継ぐことを宣言した。次いで臨時大総統となった袁世凱はダライ・ラマに彼の宣言を取り下げるようにと電報を送った。ダライ・ラマはこの書面を突っぱね、「チベットにおいて世俗と聖職の両面での統治の行使を目指している」と返答した。1913年、ダライ・ラマは中国皇帝とチベットの関係は「後援者と聖職者の関係であってどちらかからどちらかへの従属に基づいたものではなかった」と明言された声明を発し「われわれは小さい、宗教的、独立国家である」との宣言を発した。
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