チベット潜入
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連合軍がシベリア、新疆経由による重慶の蒋介石への物資ルート(西北ルート)の実態を調査する目的で1943年12月15日に身分を張家口の日本大使館調査官として西北ルートの潜入へ出発した。モンゴル人2名とともに1年間草原の暮らしを過ごしながら西へ向かい、1944年2月2日西寧に到着。その際にクムブム寺でパンチェン・ラマ10世の推戴式を目撃している。その後、ツァイダムに入るものの、1年間拘束状態になる。1945年5月18日にツァイダムを経ち、9月2日にラサ到着。しかし、ラサで太平洋戦争の終戦を知り、動揺したことから19日の滞在ののち、インドへ向かう。インドのカリンポンで終戦を確認したが、チベット人との出会いによってイギリスの情報活動に協力する。1947年にはスパイとして西川一三とともに中国軍のチベットに対する動きを調査する目的で東チベットに訪れる。1948年3月にふたたびラサに入るが、1949年に追放される。カルカッタで日本の貨物船が停泊していることを知り、治安当局に出頭し、日本への送還が決まる。1950年6月10日に日本へ帰国。
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チベット潜入
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国際経験が豊富であった成田は、外務省の内命を受けてチベット潜入を試みた。 当初、5年がかりの計画を予定しており、その前に1898年から語学を学ぶ目的で1年間重慶に滞在し、その後にダルツェンドで能海寛と寺本婉雅と合流し、チベットへ向かう予定であった。しかし、四川ルート(ダルツェンドから)でのチベット入りが困難であるとしてチベット入りを断念した。1900年には本来は機密の任務であったはずの成田のチベット行が公然のものになっていたことから外務省から帰国命令が出される。その後、帰国命令は撤回されたものの、1901年に四川ルートでのチベット入りは不可能と判断し、9月に上海から汽船でカルカッタに移動し、インドルート(シッキム経由)でのチベット入りに切り替え、カルカッタからダージリン、シッキムを経由し、ギャンツェよりラサに入った。12月8日にラサ入りを果たすが、「支那人」として通していた成田に外国人ではないかとの嫌疑がかかったため、12月25日にラサを去り、1902年4月には上海に帰還している。 チベット潜入にあたっては莫大な機密費が使われている一方で、「成果」の寡少さから評価するむきは少ない。 重慶の成田安輝 成都にて馬に乗った成田安輝。四川ルートでチベットを目指す。
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