チベット潜入とは? わかりやすく解説

チベット潜入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 15:20 UTC 版)

木村肥佐生」の記事における「チベット潜入」の解説

連合軍シベリア新疆経由による重慶蒋介石への物資ルート(西北ルート)の実態調査する目的1943年12月15日身分張家口日本大使館調査官として西北ルート潜入出発したモンゴル人2名とともに1年間草原暮らし過ごしながら西へ向かい1944年2月2日西寧到着その際にクムブム寺でパンチェン・ラマ10世推戴式を目撃している。その後、ツァイダムに入るものの、1年間拘束状態になる。1945年5月18日にツァイダムを経ち9月2日ラサ到着。しかし、ラサ太平洋戦争終戦知り動揺したことから19日滞在ののち、インドへ向かう。インドカリンポン終戦確認したが、チベット人との出会いによってイギリス情報活動協力する1947年にはスパイとして西川一三とともに中国軍チベット対す動き調査する目的で東チベット訪れる。1948年3月にふたたびラサに入るが、1949年追放されるカルカッタ日本貨物船停泊していることを知り治安当局出頭し日本への送還が決まる。1950年6月10日日本へ帰国

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チベット潜入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:26 UTC 版)

成田安輝」の記事における「チベット潜入」の解説

国際経験が豊富であった成田は、外務省内命受けてチベット潜入を試みた当初5年がかりの計画予定しており、その前に1898年から語学を学ぶ目的1年間重慶滞在しその後にダルツェンドで能海寛寺本婉雅合流しチベットへ向かう予定であった。しかし、四川ルート(ダルツェンドから)でのチベット入りが困難であるとしてチベット入り断念した1900年には本来は機密任務であったはずの成田チベット行が公然のものになっていたことから外務省から帰国命令出されるその後帰国命令撤回されたものの、1901年四川ルートでのチベット入り不可能と判断し9月上海から汽船カルカッタ移動し、インドルート(シッキム経由)でのチベット入り切り替えカルカッタからダージリンシッキム経由しギャンツェよりラサ入った12月8日ラサ入りを果たすが、「支那人」として通していた成田外国人ではないかとの嫌疑かかったため、12月25日ラサ去り1902年4月には上海帰還している。 チベット潜入にあたって莫大な機密費使われている一方で、「成果」の寡少さから評価するむきは少ない。 重慶成田安輝 成都にて馬に乗った成田安輝四川ルートチベット目指す

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