日本人未踏のチベットへとは? わかりやすく解説

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日本人未踏のチベットへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 04:19 UTC 版)

河口慧海」の記事における「日本人未踏のチベットへ」の解説

1897年明治30年6月神戸港から旅立ちシンガポール経由英領インドカルカッタ到着摩訶菩提会(Maha Bodhi Society幹事チャンドラ・ボース紹介によりダージリンチベット語学者でありチベット潜入経験のあるサラット・チャンドラ・ダース知遇を得る。およそ1年ほど現地学校にて正式のチベット語習いつつ、下宿先家族より併せて俗語も学ぶ日々を送る。その間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果ネパールからのルート選択日本人分かってチベット入り支障をきたす恐れ強いため、中国人称して行動することにした。 1899年明治32年1月仏陀成道の地ブッダガヤ参り摩訶菩提会の創設者であるダンマパーラ居士英語版)より釈迦牟尼如来舎利おさめた銀製の塔とその捧呈書、貝多羅葉経文一巻チベット辿り着いた際に法王ダライ・ラマ献上して欲しいと託される同年2月ネパール首府カトマンズ到着当地にてボダナート住職であるブッダ・バジラ・ラマ師(覚金剛)の世話になるかたわら密かにチベットへ間道調査する同年3月カトマンズを後にし、ポカラやムクテナートを経て徐々に北西進んで行くが、警備のため間道抜けられぬ状態が判明し国境近くそれ以上進めなくなる。ここで知り合ったモンゴル人博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン滞在することになり、1899年明治32年5月より翌年3月頃までをネパールのこのチベット仏教修辞学学習をしたり登山稽古をしたりして過ごしながら新たな間道模索する1900年明治33年3月新たな間道目指してツァーラン発ちマルバマルパまたはマルファ)へ向かう。村長アダム・ナリンの邸宅仏堂にて、そこに納めてあった経を読むことで日々過ごしながら、間道通れ季節になるまでこの地にて待機する同年6月12日マルバでの3ヶ月滞在終え、いよいよチベット目指し出発する同年7月4日ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ地方チベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功。白巌窟尊者ゲロン・リンボチェとの面会や、マナサルワ湖(経文に言う『阿耨達池』)・聖地カイラス山などの巡礼の後、1901年明治34年3月チベット首府ラサ到達チベットで二番目規模定員5500名)を誇るセラ寺大学チベット人僧として入学許されるそれまで中国人偽って行動していたのにこの時にはチベット人であると騙った理由は、中国人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎入れられ自分中国人でないことが発覚する恐れがあったためである。一方以前中国人であると騙ってしまった者など一部の人に対しては、依然として中国人であると偽り続ける必要があったため、ラサ滞在中は二重秘密を保つこととなる。 たまたま身近な者の脱臼治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる次第ラサにおいて医者としての名声が高まると、セライ・アムチー(チベット語で「セラ医者」)という呼び名民衆から大変な人気を博すうになる本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていたのだが、結局ラサ滞在以降チベット民衆の間では専らセライ・アムチーという名で知られることになる)。ついには法王ダライ・ラマ13世招喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、仏道修行することが自分本分であると言ってこれは断っている。また、大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになったこの前大臣の兄はチベット三大寺1つガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た1902年明治35年5月上旬日本人だという素性判明する恐れ強くなった為にラサ脱出計画親しくしていた天和堂(テンホータン)という薬屋中国人夫妻の手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配済ませた後、5月29日英領インド向けてラサ脱出した通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重関所をわずか3日間で抜け、無事インドダージリンまでたどり着くことができた。 同年10月国境行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々自分の件で次々投獄され責苦遭っているという話を聞き、かつて哲学館教え受けた井上円了、偶然出会った探検家藤井宣正、後に浄土真宗本願寺派法主となる大谷光瑞三人反対押し切り、その救出為の方策としてチベット一目置いているであろうネパール赴く翌年1903年明治36年3月待たされはしたものの、交渉結果河口慧海自身チベット法王ダライ・ラマ宛て認めた上書ネパール国王総理大臣であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王送って貰うことに成功、また国王より多く梵語仏典賜る同年4月24日英領インドボンベイ丸に乗船して離れ5月20日旅立った時と同じ神戸港帰着和泉丸乗って日本離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。河口慧海チベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。 その後河口慧海1913年大正2年)から1915年大正4年)までにも2回目チベット入境を果たしている。 ネパールでは梵語仏典仏像蒐集しチベットからは大部チベット語仏典蒐集することに成功した。また同時に民俗関係の資料植物標本なども収集した持ち帰った大量民俗資料植物標本多く東北大学大学院文学研究科によって管理されている。

※この「日本人未踏のチベットへ」の解説は、「河口慧海」の解説の一部です。
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