チベット自治区の文革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:24 UTC 版)
チベット人作家のツェリン・オーセルは、文革を「シヤアジェ(殺劫)」と表現、チベットではもともと近代的な「革命」を指す言葉もなかったが、中国共産党の侵略を受けて、新たに「サルジェ」という語が創設され、中国人がもたらした「革命」を意味する「サルジェ」は、漢語の「殺劫」と類似した発音であり、「人類殺劫」となり、文革の本質を表した概念として定着していった。 中国は「ヨーロッパの中世よりも暗黒な政教一致の農奴制からチベット人民を解放した」と宣言したが、それを認めないダライ・ラマは「叛乱」、文革中も「解放」されたチベット人は度々武装蜂起したが、それらは造反派と保守派の対立による武闘か或いは再叛乱なのかをめぐり論争があるが、オーセルは「共産党のいう『革命』や『解放』は、雪の国を根底から揺り動かし、その大地に深く根づいたチベット民族のルーツ(根)を根こそぎ掘り返し、伝統、文化、信仰、価値などを喪失させ、貧困に突き落とした。 そして、抵抗すれば残酷に鎮圧した。かくしてチベット人は物質的にも精神的にも追い詰められ、『再叛乱』を起こさざるを得なくなった」として、文革中のチベット人の抵抗をダライ・ラマに続く「再叛乱」と位置づけ、「チベットの近代史において最も暗黒の時期であった文革期における光輝であった」と述べている。楊海英は、「『解放者』からの抑圧に対して武装蜂起し、そしてその蜂起が『再叛乱』だと解釈されて鎮圧された歴史を民族の近現代史における『光輝』と呼んだところに、チベット人にとっての文革の悲劇性が認められるのではなかろうか」と評している。
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