パドヴァのアントニオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/03 08:02 UTC 版)
| パドヴァ(パドア)の聖アントニオ | |
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幼いキリストを抱くパドヴァの聖アントニオ、フランシスコ・デ・スルバラン画
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| 教会博士、福音的博士 | |
| 生誕 | 1195年 リスボン |
| 死没 | 1231年6月13日 パドヴァ |
| 崇敬する教派 | カトリック教会 |
| 記念日 | 6月13日 |
| 象徴 | 幼子のキリストを抱いた姿、本、ユリの花、パン |
| 守護対象 | 失せ物、結婚、縁結び、花嫁、不妊症に悩む人々、愛、老人、動物、パドヴァ、ポルトガル、ブラジル[1] |
聖パドヴァのアントニオ(イタリア語:Sant'Antonio di Padova、ポルトガル語:Santo António de Lisboa、スペイン語:San Anton Abad、1195年 - 1231年6月13日)、パドアのアントニオは、カトリック教会で、失せ物、結婚、縁結び、花嫁、不妊症に悩む人々、愛、老人、動物の聖人とされている。教会博士の一人。
来歴
本名はフェルナンド・マルティンス・デ・ブリャォン(Fernando Martins de Bulhão)といい、リスボンで貴族の子として生まれた。そのため、リスボンのアントニオとも呼ばれる。1210年15歳の時にリスボンのアウグスティノ修道参事会修道院に入った。1212年にコインブラの修道院に移り学業に専念し、2年後に司祭に叙任された。1220年にコインブラにおいて、モロッコで殉教したフランシスコ会伝道師5人の遺骨の埋葬が行われたのに強く心を動かされ、アウグスティノ修道参事会修道院からコインブラ近傍のフランシスコ会聖アントニウス修道院に移籍し、アントニウスと名乗るようになった。同年モロッコに行くが、重病にかかり帰還した。以後フランシスコ会で雄弁の才能が認められ、1222年から1224年にかけては異端のカタリ派に対抗して北イタリア、特に リミニとミラノで、その後1227年まではアルビジョア派に対抗して 南フランスで、その後 1230年まではパドヴァを中心に北イタリアで説教師として大活躍した。アッシジのフランチェスコは彼をボローニャのフランシスコ会修道院の神学の教師に任じている。1230年以後は公的な場から退き、パドヴァ近傍で樹上での生活を行った。1231年に亡くなるとパドヴァのサンタ・マリア・マッジョーレに埋葬された。 1232年には早くも列聖された。1263年遺骸がパドヴァの聖アントニオ聖堂に移葬されたが、雄弁家だった彼の舌は損傷されていなかったという。彼にまつわる伝説で最も有名なものは、魚を相手にした説教である。彼はリミニの岸辺で異端者を相手に説教しようとするが、だれひとり現れない。彼が説教を始めると、魚たちが集まり、水の中から頭を出したというものである [2]。
説法に優れ、生前から民衆にも大変人気のある人物であったという。彼が死んだとき、天使たちが舞い降りて町中の教会の鐘をひとりでに鳴らしたとも言われている。彼の絵画や肖像では、幼子のキリストを抱き、本とユリの花、パンがともに描かれている。祝日は6月13日。パドヴァ、ポルトガル、ブラジルの守護聖人。
脚注
- ↑ http://shop.thesacredsecret.com/?mode=f94
- ↑ Erhard Gorys : Lexikon der Heiligen. München: Deutscher Taschenbuch Verlag, 6. Aufl. 2005 (ISBN 3-423-34149-1), S. 49-50. - Hiltgart L. Keller: Reclams Lexikon der Heiligen und der biblischen Gestalten. Stuttgart: Reclam 1968, S.42-43. - Lexikon des Mittelalters. Bd.1 . München/Zürich: Artemis Verlag, 1980. (ISBN 3-7608-8901-8), Sp. 732-733.
関連項目
固有名詞の分類
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