フランシスコ・デ・スルバランとは? わかりやすく解説

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スルバラン【Francisco de Zurbarán】

読み方:するばらん

[1598〜1664]スペイン画家写実的神秘的な宗教画制作

スルバランの画像
スペイン・ジェレナのグラナダ聖母教会前にあるスルバランの像/(c)Kolforn https://goo.gl/aJwf5Y
スルバランの画像
幼き聖母(1632~33頃)/メトロポリタン美術館https://goo.gl/YPpKWb
スルバランの画像
エル・ソティージョにおけるキリスト教徒ムーア人戦い(1637~39頃)/メトロポリタン美術館https://goo.gl/RhrFdc
スルバランの画像

フランシスコ・デ・スルバラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/20 16:14 UTC 版)

フランシスコ・デ・スルバラン
Francisco de Zurbarán
マドリードのプラド美術館のファサードのスルバランのレリーフ
生誕 1598年11月7日
フエンテ・デ・カントス
死没 1664年8月27日
マドリード
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聖ウーゴと食卓の奇蹟』 セビーリャ美術館
壺のある静物』(1658-1564年) プラド美術館

フランシスコ・デ・スルバランFrancisco de Zurbarán, 1598年11月7日(洗礼を受けた日) - 1664年8月27日[1])は、バロック期のスペイン画家。スペイン絵画の黄金時代と言われる17世紀前半に活動した画家であり、宗教画、静物画に優れた。

生涯

スペイン南西部、エストレマドゥーラ地方フエンテ・デ・カントスに生まれる。1614年から1617年にかけてセビリアの画家ペトロ・ディアス・ビジャヌエバに師事した。なお、この師については詳しいことはわかっていない。1617年にはエストレマドゥーラ地方の町リェレーナに移り、同地で結婚した。1625年には13歳年下の未亡人と再婚。翌1626年からセビリアで活動している。このセビーリャ進出については再婚した妻の縁者のつてがあったと言われている。

1628年にはメルセス会(13世紀にスペインで成立した修道会)の注文で、同会の創設者・聖ペドロ・ノラスコの生涯を描いた連作を制作している。以後、1630年代にはセビリアを中心に活動している。1634年にはマドリードのブエンレティーロ宮「諸王国の間」の装飾という大仕事を依頼されている。これには同時代の大画家ベラスケスの引きがあったと言われている。1638-1639年にはグアダルーペ修道院聖具室の装飾に携わっており、この頃がスルバランの全盛期であった。

1640年代にはスルバランの人気は急速に衰えた。この頃のスペイン画壇では、甘美で感傷的なマリア像などを描いて人気のあったムリーリョが一世を風靡し、厳格な様式のスルバランの絵画は時代遅れと見なされていたのであった。また、この頃にはセビリアの街そのものが独占貿易権を失ったことによって、かつての活気を失っていた。街を襲ったペスト禍もそれに追い討ちをかけた。

1658年、ベラスケスを頼りマドリードへ出るが、かつての精彩はなく、1664年、マドリードにて没した。

作風

スルバランの作品には、カラヴァッジオ(イタリア・バロック期の巨匠)のように明暗の劇的な対比を見せたものが多く、「スペインのカラヴァッジョ」の呼称もある。しかし、スルバランの作風はカラヴァッジョのように革新的なものではなく、構図は単純で静的であり、題材も伝統的な宗教画や静物画などに限定されている。個性の表出よりは注文主の意向に忠実に描いた画家と言え、この点が17世紀の後半になって彼の絵が急速に時代遅れと見なされた一因と思われる。革新性やダイナミックな躍動感には欠けるが、キリスト教を題材にした作品には深い宗教的感情が表現されている。また、静物画はごく少数が現存するのみであるが、迫真の描写力を発揮し、独自の世界をつくっている。

代表作

ギャラリー

脚注

  1. ^ Francisco de Zurbarán | Spanish Painter”. Britannica. 2024年11月7日閲覧。

関連文献

  • 『スルバラン 世界の巨匠シリーズ』ジョナサン・ブラウン編・解説、神吉敬三訳、美術出版社、1976年
  • 『NHKプラド美術館4 民衆の祈りと美』大高保二郎・雪山行二責任編集、日本放送出版協会、1992年 - 「第2章 敬虔なる魂、スルバラン」

関連項目


フランシスコ・デ・スルバラン (1)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:02 UTC 版)

スペイン黄金時代美術」の記事における「フランシスコ・デ・スルバラン (1)」の解説

フランシスコ・デ・スルバランは1598年エストレマドゥーラ地方生まれ1614年から絵の修業励んだ。しばらくは画工として彩色業を担当していたが、1626年再婚相手のベアトリス・デ・モラリスのつてでセビリア進出する教会祭壇画など精力的に活動するほか、足場強固にするため安い値段作品売ったため人気画家になった1627年描いた写実的な肉体表現施した磔刑図』で名を馳せ翌年の聖ペドロ・ノラスコの連作画、有名なものに『聖ペドロ・ノラスコに現れた聖ペドロ』でその地位不動なものにする。彼の作品明暗劇的な対比静かな構図特徴的で、注文主嗜好にも配慮して創作したという。 こうしてセビリア代表する画家になったスルバランの名はマドリード宮廷にまで届き1634年おそらくはベラスケス招きによってマドリードにやってきた。『カディスの防衛』などを手掛けるが、静謐絵画を得意とする彼はダイナミックな表現求められる戦争画には向いておらず、あまり賞賛されなかった。そして失意のうちに再びセビリアへ戻るが、成熟した彼の絵筆は止まらなかった。これまでのスペイン全体画家共通してイタリア絵画フランス語版)を模倣するという傾向があったが、スルバランは自らのスタイル重視して前例のない図像生み出していった。宗教画のみならず肖像画コタン系譜を継ぐ精巧な静物画まで幅広く手掛けていく。また、後述するナポリリベラ影響受けているとされ、セビリアアルカラ公爵収集したイタリア絵画コレクション学び自作表現多様化させた。そして1639年サンタ・マリア・デ・グアダルーぺ修道院への絵画制作キャリア盛期と言えるだろう。

※この「フランシスコ・デ・スルバラン (1)」の解説は、「スペイン黄金時代美術」の解説の一部です。
「フランシスコ・デ・スルバラン (1)」を含む「スペイン黄金時代美術」の記事については、「スペイン黄金時代美術」の概要を参照ください。

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