スルバラン【Francisco de Zurbarán】
フランシスコ・デ・スルバラン
フランシスコ・デ・スルバラン (1)
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「スペイン黄金時代美術」の記事における「フランシスコ・デ・スルバラン (1)」の解説
フランシスコ・デ・スルバランは1598年にエストレマドゥーラ地方に生まれ1614年から絵の修業に励んだ。しばらくは画工として彩色業を担当していたが、1626年再婚相手のベアトリス・デ・モラリスのつてでセビリアに進出する。教会の祭壇画など精力的に活動するほか、足場を強固にするため安い値段で作品を売ったため人気の画家になった。1627年に描いた写実的な肉体表現を施した『磔刑図』で名を馳せ、翌年の聖ペドロ・ノラスコの連作画、有名なものに『聖ペドロ・ノラスコに現れた聖ペドロ』でその地位を不動なものにする。彼の作品は明暗の劇的な対比と静かな構図が特徴的で、注文主の嗜好にも配慮して創作したという。 こうしてセビリアを代表する画家になったスルバランの名はマドリードの宮廷にまで届き、1634年におそらくはベラスケスの招きによってマドリードにやってきた。『カディスの防衛』などを手掛けるが、静謐な絵画を得意とする彼はダイナミックな表現が求められる戦争画には向いておらず、あまり賞賛されなかった。そして失意のうちに再びセビリアへ戻るが、成熟した彼の絵筆は止まらなかった。これまでのスペイン全体の画家に共通してイタリア絵画(フランス語版)を模倣するという傾向があったが、スルバランは自らのスタイルを重視して前例のない図像を生み出していった。宗教画のみならず肖像画やコタンの系譜を継ぐ精巧な静物画まで幅広く手掛けていく。また、後述するナポリのリベラの影響を受けているとされ、セビリアのアルカラ公爵が収集したイタリア絵画のコレクションを学び、自作の表現を多様化させた。そして1639年サンタ・マリア・デ・グアダルーぺ修道院への絵画制作がキャリアの盛期と言えるだろう。
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フランシスコ・デ・スルバラン (2)
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「スペイン黄金時代美術」の記事における「フランシスコ・デ・スルバラン (2)」の解説
彼が生まれた時のセビリアはヨーロッパ一の港として繁栄を極めていたが、この時代になると経済的に衰退していった。また、1649年の疫病で人口が半減するなどセビリアの没落は深刻であった。その環境は当地で確固たる地位を築きあげたスルバランにものしかかることになる。彼の絵を買ってくれていた教会がその余裕を失い、彼の絵はあまり売れなくなったのである。さらには家族も疫病で失っている。ようやく復興がなされ絵画市場が再び開かれると彼は精力的に活動を開始するが、もうセビリアの人々は彼の厳格な様式を好みはしなかった。1640年代から急に頭角を現したバルトロメ・エステバン・ムリーリョという新星に注文は集中して、スルバランの絵は時代遅れとされるのだった。1658年にベラスケスを頼ってマドリードに昇るが、度重なる不幸に枯れてしまった彼は復活することなく、1664年マドリードで失意のうちに亡くなった。
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固有名詞の分類
美術家 | ポール・ゴーギャン アルフレッド・シスレー フランシスコ・デ・スルバラン エミール・ノルデ マックス・リーバーマン |
17世紀の美術家 | 円空 クロード・ロラン フランシスコ・デ・スルバラン ジョルジュ・ド・ラ・トゥール 石濤 |
スペインの画家 | バルトロメ・エステバン・ムリーリョ ホセ・ルイス・イ・ブラスコ フアン・グリス アルベルト・ラフォルス・カサマダ フランシスコ・デ・スルバラン |
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