スルバラン【Francisco de Zurbarán】
フランシスコ・デ・スルバラン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/20 16:14 UTC 版)
フランシスコ・デ・スルバラン
Francisco de Zurbarán |
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マドリードのプラド美術館のファサードのスルバランのレリーフ
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生誕 | 1598年11月7日 フエンテ・デ・カントス |
死没 | 1664年8月27日 マドリード |


フランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán, 1598年11月7日(洗礼を受けた日) - 1664年8月27日[1])は、バロック期のスペインの画家。スペイン絵画の黄金時代と言われる17世紀前半に活動した画家であり、宗教画、静物画に優れた。
生涯
スペイン南西部、エストレマドゥーラ地方のフエンテ・デ・カントスに生まれる。1614年から1617年にかけてセビリアの画家ペトロ・ディアス・ビジャヌエバに師事した。なお、この師については詳しいことはわかっていない。1617年にはエストレマドゥーラ地方の町リェレーナに移り、同地で結婚した。1625年には13歳年下の未亡人と再婚。翌1626年からセビリアで活動している。このセビーリャ進出については再婚した妻の縁者のつてがあったと言われている。
1628年にはメルセス会(13世紀にスペインで成立した修道会)の注文で、同会の創設者・聖ペドロ・ノラスコの生涯を描いた連作を制作している。以後、1630年代にはセビリアを中心に活動している。1634年にはマドリードのブエンレティーロ宮「諸王国の間」の装飾という大仕事を依頼されている。これには同時代の大画家ベラスケスの引きがあったと言われている。1638-1639年にはグアダルーペ修道院聖具室の装飾に携わっており、この頃がスルバランの全盛期であった。
1640年代にはスルバランの人気は急速に衰えた。この頃のスペイン画壇では、甘美で感傷的なマリア像などを描いて人気のあったムリーリョが一世を風靡し、厳格な様式のスルバランの絵画は時代遅れと見なされていたのであった。また、この頃にはセビリアの街そのものが独占貿易権を失ったことによって、かつての活気を失っていた。街を襲ったペスト禍もそれに追い討ちをかけた。
1658年、ベラスケスを頼りマドリードへ出るが、かつての精彩はなく、1664年、マドリードにて没した。
作風
スルバランの作品には、カラヴァッジオ(イタリア・バロック期の巨匠)のように明暗の劇的な対比を見せたものが多く、「スペインのカラヴァッジョ」の呼称もある。しかし、スルバランの作風はカラヴァッジョのように革新的なものではなく、構図は単純で静的であり、題材も伝統的な宗教画や静物画などに限定されている。個性の表出よりは注文主の意向に忠実に描いた画家と言え、この点が17世紀の後半になって彼の絵が急速に時代遅れと見なされた一因と思われる。革新性やダイナミックな躍動感には欠けるが、キリスト教を題材にした作品には深い宗教的感情が表現されている。また、静物画はごく少数が現存するのみであるが、迫真の描写力を発揮し、独自の世界をつくっている。
代表作
- 『聖ペドロ・ノラスコに現れる聖ペテロ』(1629年)プラド美術館
- 『聖ウーゴと食卓の奇蹟』(1630-1635年)(1625年頃あるいは1645-55年頃とも)セビーリャ美術館
ギャラリー
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『無原罪の御宿り』プラド美術館
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『聖トマス・アクィナスの神格化』 (部分)
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『聖トマス・アクィナスの神格化』(部分)
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『神の仔羊』(1635-1640年) プラド美術館
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『聖ボナヴェントゥーラの遺体安置』(1629年) ルーヴル美術館
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『幼い聖母マリア』(1632-1633年頃) メトロポリタン美術館
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『ヘラクレスの死』(1634年) プラド美術館
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『カディスの防衛』(1634年) プラド美術館
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『カディスの防衛』(部分)
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『聖ヒエロニムスの誘惑』(1640年代) サンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院
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『聖ウーゴと食卓の奇蹟』(1655年) セビーリャ美術館
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『聖ウーゴと食卓の奇蹟』(部分)
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『聖セラピオン』 (1628年) ワズワース・アテネウム美術館
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『聖ペドロ・ノラスコに現れる聖ペテロ』(1629年)プラド美術館
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『聖ペドロ・ノラスコの幻視』(1629年) プラド美術館
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『ヘラクレスとヒュドラ』(1634年) プラド美術館
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『ネメアのライオンと闘うヘラクレス』 (1634年) プラド美術館
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『聖アポロニア』 (1636年) ルーヴル美術館
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『ポルトガルの聖イサベル』(1630-1635年)プラド美術館
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『磔刑を描く聖ルカ』(1650年頃)プラド美術館
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『アンティオキアの聖マルガリタ』(1629年)ナショナル・ギャラリー (ロンドン)
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『受胎告知』 (1638-1639年) グルノーブル美術館
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『ナザレの家のキリストと聖母マリア』 (1640年頃) クリーブランド美術館
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『ナザレの家のキリストと聖母マリア』 (部分)
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『祈る幼い聖母マリア』 (1660年) エルミタージュ美術館
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『恍惚の聖フランチェスコ』 (1658-1660年) アルテ・ピナコテーク
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『レモン、オレンジ、バラのある静物』 (1633年) ノートン・サイモン美術館
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『無原罪の御宿り』
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『無原罪の御宿り』
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『聖アロンソ・ロドリゲスの幻視』 (1630年) 王立サン・フェルナンド美術アカデミー
脚注
- ^ “Francisco de Zurbarán | Spanish Painter”. Britannica. 2024年11月7日閲覧。
関連文献
- 『スルバラン 世界の巨匠シリーズ』ジョナサン・ブラウン編・解説、神吉敬三訳、美術出版社、1976年
- 『NHKプラド美術館4 民衆の祈りと美』大高保二郎・雪山行二責任編集、日本放送出版協会、1992年 - 「第2章 敬虔なる魂、スルバラン」
関連項目
フランシスコ・デ・スルバラン (1)
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「スペイン黄金時代美術」の記事における「フランシスコ・デ・スルバラン (1)」の解説
フランシスコ・デ・スルバランは1598年にエストレマドゥーラ地方に生まれ1614年から絵の修業に励んだ。しばらくは画工として彩色業を担当していたが、1626年再婚相手のベアトリス・デ・モラリスのつてでセビリアに進出する。教会の祭壇画など精力的に活動するほか、足場を強固にするため安い値段で作品を売ったため人気の画家になった。1627年に描いた写実的な肉体表現を施した『磔刑図』で名を馳せ、翌年の聖ペドロ・ノラスコの連作画、有名なものに『聖ペドロ・ノラスコに現れた聖ペドロ』でその地位を不動なものにする。彼の作品は明暗の劇的な対比と静かな構図が特徴的で、注文主の嗜好にも配慮して創作したという。 こうしてセビリアを代表する画家になったスルバランの名はマドリードの宮廷にまで届き、1634年におそらくはベラスケスの招きによってマドリードにやってきた。『カディスの防衛』などを手掛けるが、静謐な絵画を得意とする彼はダイナミックな表現が求められる戦争画には向いておらず、あまり賞賛されなかった。そして失意のうちに再びセビリアへ戻るが、成熟した彼の絵筆は止まらなかった。これまでのスペイン全体の画家に共通してイタリア絵画(フランス語版)を模倣するという傾向があったが、スルバランは自らのスタイルを重視して前例のない図像を生み出していった。宗教画のみならず肖像画やコタンの系譜を継ぐ精巧な静物画まで幅広く手掛けていく。また、後述するナポリのリベラの影響を受けているとされ、セビリアのアルカラ公爵が収集したイタリア絵画のコレクションを学び、自作の表現を多様化させた。そして1639年サンタ・マリア・デ・グアダルーぺ修道院への絵画制作がキャリアの盛期と言えるだろう。
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