前身と初期の学部とは? わかりやすく解説

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前身と初期の学部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 04:12 UTC 版)

モンペリエ大学」の記事における「前身と初期の学部」の解説

大学として正式な創設は、ローマ教皇ニコラウス4世による大勅書出た1289年のことである。これは、パリ大学1150年)、トゥールーズ大学1229年)に次いでフランスで3番目に古い設置である。加えてボローニャ大学オックスブリッジサラマンカ大学と共に1213世紀設立されヨーロッパ最古中世大学にあたる。ただし、それに先立ってモンペリエには前身となる学校存在していた。 教養学部自由七科この前身の創設は明確ではない。 法学部1160年モンペリエに来たボローニャ法学校のプラケンティヌス (Placentinus) が礎を作った。彼はそこで教鞭執り1192年没した法学部長い伝統誇り、のちにはナポレオン法典起草当たっても、当時モンペリエ大学教授たちが大きく貢献した。なお、法学部1998年改組された。 医学部モンペリエ大学で最も名高いのが医学部である。この前身はスペイン医学校学んだユダヤ人たちによって形成されたと推測されている。モンペリエ領主ギレムの政策おかげで免状持った医師であればその学校講ずる事ができた。また、教員定員はなく、多様な講義が可能であった1220年にはローマ教皇ホノリウス3世特使コンラート・フォン・ウルラッハ枢機卿 (Cardinal Conrad von Urach) によって法認が与えられ1240年にはマグロン司教指揮下でさらに広い分野での承認与えられた。ただし、こうした監督にあって事実上かなりの自治謳歌していた。 神学部修道院での講義起源持ちパドヴァのアントニオドミニコ会士のベルナール・ド・ラ・トレイユ (Bernard de la Treille) らが講じた修道院切り離された形での神学部確認できるのは1350年1月のことである。1421年12月17日付のマルティヌス5世の大勅令では、神学部教会法に基づく研究機関設置することが認められ、それは法学部と密接に結び付けられた。

※この「前身と初期の学部」の解説は、「モンペリエ大学」の解説の一部です。
「前身と初期の学部」を含む「モンペリエ大学」の記事については、「モンペリエ大学」の概要を参照ください。

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