前身のCURCC時代(1891年-1913年)
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「CAペニャロール」の記事における「前身のCURCC時代(1891年-1913年)」の解説
1891年9月28日、1878年創業のセントラル・ウルグアイ鉄道で働くイギリス人達によってセントラル・ウルグアイ・レールウェイ・クリケット・クルブ(Central Uruguay Railway Cricket Club, CURCC)が創設された。黄色と黒色のクラブカラーは鉄道の信号と踏切の色に由来する。118人の創設メンバーのうち、72人がイギリス人、1人がドイツ人、45人がウルグアイ人であった。セントラル・ウルグアイ鉄道クリケットクラブという長い名称はスペイン語話者には難解だったため、通常は単にCURCCか、ペニャロールと呼ばれた。ペニャロールという名称は、CURCCが活動拠点としていたモンテビデオ郊外のビジャ・ペニャロールという村の名前に由来する。この村は新しく築かれた村であり、近くには農場やブドウ畑などが広がっていた。 初代会長にはフランク・ヘンダーソンが就任し、1899年まで会長職を務めた。CURCCは、当初はクリケットとラグビーのプレーを目的としていたが、1892年にはサッカーチームを立ち上げた。最初のサッカーの試合はイングランド人学生の混成チームとの間で行われ、CURCCが2-0で勝利した。初代キャプテンのジョン・マクレガーも含め、創設初期は代々イングランド人選手がキャプテンを務めていたが、1895年、フリオ・ネグロンがウルグアイ人として初のキャプテンに選出された。1900年に、CURCC、アルビオンFC、ドイチャーFK、ウルグアイ・アトレティックの4クラブはウルグアイサッカー協会を設立し、国内リーグを開始した。6月10日にアルビオンとの間で行われた試合がクラブ初の公式戦であり、フアン・ペーニャとウィリアム・デイヴィスのゴールで2-1の勝利を飾った。7月15日には、後にスーペルクラシコとなるナシオナルとの初対戦が行われ、2-0で勝利を飾った。 1900年に開幕した国内リーグでは、1900シーズンに初代王者となると、翌1901シーズンには2連覇を達成した。1903シーズンのトリウンフォ戦ではリーグ史上初めて1試合二桁得点(12-0)を達成した(後に1908シーズンにモンテビデオ・ワンダラーズも同スコアを達成)。1902シーズン、1903シーズンはライバルのナシオナルに連覇を許したが、内戦による中断を経た1905シーズンにはCURCCが再びタイトルを奪い返した。1905シーズンの優勝は全試合勝利(なおかつ無失点)での完全優勝だった。1907シーズンには国内リーグ、コパ・コンペテンシア、コパ・デ・オノールの国内3冠(トリプレ・コローナ)を達成した。 1909年には、ライバル選手が移動に使用していたワゴン車を、CURCCのサポーターグループが燃やす事件が発生した。この頃から、クラブ運営の負担の大きさから、CURCCはサッカー部門からの撤退を模索するようになる。1911シーズンに5回目の優勝を達成した後、クラブの組織改革が行われた。CURCCからペニャロールへの名称変更や、セントラル・ウルグアイ鉄道の従業員以外の選手の参加提案が行われ、1913年6月にはいったん否決されたものの、11月には従業員以外の選手の参加がクラブによって認められた。12月13日、正式にセントラル・ウルグアイ鉄道からCURCCペニャロール(CURCC Peñarol)として独立した。さらに1914年3月12日にはCAペニャロール(Club Atlético Peñarol)と名称変更し、ウルグアイサッカー協会とリーグ参加全クラブによって承認された。4月13日には、新生ペニャロールはウルグアイ政府から新たに法人格を取得した。一方で、ペニャロールの誕生後も、CURCCはセントラル・ウルグアイ鉄道の社員福利厚生のためのサッカークラブとして1915年1月22日まで存在し続けたため、1年以上にわたりCURCCとペニャロールが異なる組織体として併存していた期間があり、両クラブの歴史的連続性については見解が分かれている。
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