リーグ史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 04:51 UTC 版)
「カンピオナート・ブラジレイロ」の記事における「リーグ史」の解説
1960年に「リベルタドーレスカップ」が南米サッカー連盟主催により、同連盟加盟10カ国のリーグ優勝チームを初めとした上位クラブで争われることが決まり、それのブラジル代表決定戦として1959年に、各州ごとに行われるリーグ戦の上位チームを対象とした「タッサ・ブラジル(Taça Brasil)」というブラジルチャンピオンを決定するカップ戦が始まった。これが礎である。 その後1967年に「タッサ・ブラジル」とは別のブラジルチャンピオン決定戦、トルネイオ・ホベルト・ゴメス・ペドローザ(ポルトガル語版)が開催される。1968年までは並行開催であったが、1969年からは後者のみとなった。そして1971年に他の南米・ヨーロッパ諸国と同じように、本格的な全国リーグを立ち上げることになり、それらを発展解消して「カンピオナート・ブラジレイロ」が1部・2部の2ディビジョンでスタートを切った。 1972年頃から1980年代はCBFが1部リーグの拡大路線を推進し、1部リーグの参加チームが80を超えるという異例の事態となった(この影響で1973年-1979年は2部リーグが一時休止となった)。これを受けてブラジルの主要13クラブが抗議。1979年には一部クラブが出場を辞退したほか、1987年は主要13クラブによる「コパ・ウニオン」と、CBF主催の「カンピオナート・ブラジレイロ」がそれぞれに16チームずつ参加という形で2リーグに分裂してしまった。この年は結局統一王座決定戦が行われなかったため1部リーグは2チーム優勝という形式となったが、その後CBFと主要13クラブが、チーム数を20前後まで削減することで合意し、以後1部リーグは年度にもよるが20-22チームで争われるようになる。 しかし、1999年の1部リーグにおける降格ルールが複雑であったのと、サンドロ・ヒロシ年齢詐称事件により、SEガマが、このルールによるサンパウロFCの没収試合がなければ2部降格を免れたところを降格が決定してしまったことにより、再びCBFと対立。2000年はCBF主催を断念し、クラブ主導による「コパ・ジョアン・アヴェランジェ」を全国リーグに充てたが、2001年に再び和解し、今日に至る。
※この「リーグ史」の解説は、「カンピオナート・ブラジレイロ」の解説の一部です。
「リーグ史」を含む「カンピオナート・ブラジレイロ」の記事については、「カンピオナート・ブラジレイロ」の概要を参照ください。
- リーグ史のページへのリンク