バッドボーイズの覇権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 05:35 UTC 版)
「1988-1989シーズンのNBA」の記事における「バッドボーイズの覇権」の解説
デトロイト・ピストンズはNBAがまだBAAだった1948年に加盟した、リーグでも最古参と言えるチームの一つだった。1950年代前半のピストンズ(当時はフォートウェイン・ピストンズ)はジョージ・ヤードリー、ラリー・フォウストらを擁したリーグ有数の強豪であり、1955年と1956年には2年連続でファイナルに進出しているが、1957年にデトロイトに本拠地を移したのを機に低迷が始まり、17年連続で勝率5割を下回るシーズンが続いた。ボストン・セルティックス支配の60年代が終わり、群雄割拠の70年代へと入るとピストンズもデイブ・ビンやボブ・レイニアの活躍で一時は上位戦線に浮上するものの、彼らの権勢は長続きせずピストンズはすぐに弱小チームへと逆戻りした。1948年当時から存在するチームのうち、ロチェスター・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)とフィラデルフィア・ウォリアーズ(現ゴールデンステート・ウォリアーズ)は早い段階で優勝を果たしており、またボストン・セルティックスとロサンゼルス・レイカーズは他が羨むほどの数の優勝を経験。長い間ピストンズとはドアマット仲間だったニューヨーク・ニックスも70年代の戦国の気風に乗って2度の優勝を果たしてしまい、気がつけばBAA時代から存在するチームで優勝していないのは、ピストンズだけとなっていた。 そんなピストンズが弱小チームから抜け出す契機となったのが、1981年である。この年ピストンズはアイザイア・トーマスを全体2位で指名し、さらにシーズン中にはビル・レインビアとヴィニー・ジョンソンを獲得。ここにリーグ史でも極めて異質な存在として語られるチームの基礎が出来上がった。2年後の1983年にはチャック・デイリーがヘッドコーチとして合流し、このシーズンには7年ぶりにプレーオフに進出。1985年にはジョー・デュマースをドラフトで指名し、翌1986年にはエイドリアン・ダンドリーが加わった。 時間を掛けて完成されたピストンズは、リーグでも最も凶暴なチームへと変貌を遂げていた。当時のピストンズは非常に激しいディフェンスをすることで有名だったが、それ以上にピストンズを際立たせたのが数々のラフプレイと傍若無人な振る舞いだった。彼らの行為に協会に直接抗議を入れるチームが後を絶たず、またピストンズの数選手だけで他の1チーム分の罰金を越えていた。80年代の主役の多くはマジック・ジョンソンやジュリアス・アービング、マイケル・ジョーダンなどの人当たりの良い、いわゆる優等生タイプだっただけに、多くのNBAファンは突如として出現したこのチームに戸惑い、そして戸惑いはやがて恐れと怒りに変わり、ピストンズはリーグでも最も嫌われるチームとなった。 人々は彼らを"バッドボーイズ"と呼んだ。一方当のピストンズのメンバーは自らを"Raiders of the NBA(NBAの侵略者)"と呼んでいた。侵略者たちは周囲からの批判を嘲笑うかのように着実に力をつけていき、アイザイアはチーム一の低身長ながら司令塔として曲者揃いのチームを纏め上げ、レインビアはリーグを代表するセンターとして活躍すると共に、バッドボイーズの中でも抜きん出た乱暴者として相手チームを震え上がらせた。ヴィニー・ジョンソンは一気に火が着くことから"Microwave"という異名を頂戴し、彼が活躍する時間帯はクッキングタイムと呼ばれた。チーム唯一の紳士だったデュマースもディフェンスでは相手の脅威となり、また優れたスコアラーでもあった。レインビアと共に恐れられたリック・マホーンはローポストではリーグ最高のディフェンダーであり、また控えにもジョン・サリーやデニス・ロッドマンなど若手の優秀な選手が揃っていた。彼らは長い間リーグを支配し続けていたセルティックスとレイカーズの2強時代についに終止符を打ち、前季にはファイナルに進出。リーグ一の嫌われ者だった彼らも地元デトロイトからは熱狂的な支持を得、ポンティアック・シルバードームで行われたファイナル第3戦と第5戦では当時のNBA観客動員数記録となる40000人以上のファンが押し寄せた。惜しくも優勝はならなかったが、もはや誰もがバッドボイーズをただの暴力集団と見なすことは出来ない状態となった。 ファイナルでレイカーズに破れたピストンズは大きく動いた。チームのリーディングスコアラーだったエイドリアン・ダントリーをトレードに出し、マーク・アグワイアを獲得したのである。彼はアイザイアの幼なじみでもあり、ダントリーよりもピストンズのシステムに合っていた。新たなメンバーを加えてさらに強化されたバッドボーイズは新シーズンを暴れ周り、当時のチーム記録となる63勝を記録してチーム初のシーズン勝率トップに輝いた。プレーオフでも圧倒的な強さで勝ち抜き、1回戦ではラリー・バード不在のセルティックスを3戦全勝で片付け、続くカンファレンス準決勝ではミルウォーキー・バックスを蹴散らし、カンファレンス決勝ではマイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズを4勝2敗で降して2年連続のファイナルに進出した。 一方、西からはピストンズ以上に猛烈な勢いでディフェンディングチャンピオンのロサンゼルス・レイカーズが勝ちあがってきた。彼らには「三連覇」という大きな野望があり、パット・ライリーHCは三連覇を意味する彼の造語である「スリーピート」をすでに商標登録していた。また42歳になったカリーム・アブドゥル=ジャバーはこのシーズン限りで引退することを表明しており、リーグの至宝とも言うべきジャバーの最後の花道を飾るために、チームが一致団結していた。レイカーズは何とファイナルまでを11戦全勝、パーフェクトで勝ち上がったのである。 2年連続で同じ顔ぶれとなったファイナルは、多くの人々がレイカーズの三連覇を予想した。レイカーズはここまで過去に例を見ない強さで勝ち進んでおり、また誰もがジャバーが有終の美をもって引退することを望んでいた。そして何よりこれ以上憎まれっ子が世にはばかることを多くの人々が恐れた。しかし世の中は人の思うようには行かないものだった。
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