ウィリー・メイズのザ・キャッチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 23:28 UTC 版)
「1954年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ウィリー・メイズのザ・キャッチ」の解説
当時ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のスポーツ記者だったロジャー・カーンは、1952年から1953年までドジャースを担当した後にこの年ジャイアンツの担当となった。アリゾナ州フェニックスでの春季キャンプを取材に行った際にカーンが驚いたのは球団関係者が一様にウィリー・メイズが戻ってくればチームは優勝できると信じ込んでいたことであった。1951年にメジャーデビューしてその年にナショナルリーグ新人王となったメイズだったが、翌1952年に開幕して1ヵ月後に兵役に就き、わずか34試合に出場しただけで朝鮮戦争に参加した。そして2シーズンを棒に振った後に、この年のキャンプ中に除隊のニュースが届いていた。カーンは皆の期待感の強さを揶揄するために『ウィリーの身長は10フィート9インチ(約3m半)、垂直飛びで15フィート(約5m)飛ぶ。誰も彼の頭上を越える打球を打つことなど出来ない』という記事を1954年2月27日付けの同紙に載せた。やがてキャンプに合流したメイズが紅白戦に出場した時に、ファインプレーを立て続けに決めて、カーンは「自分が書いたことは全て正しかった。」と思い知らされたという。 そしてリーグ優勝の後のワールドシリーズ第1戦で、2対2のまま8回表無死一・二塁の場面で打席に立ったインディアンスの5番打者ビック・ワーツが強烈なライナーをポログラウンズのセンター最深部に放った。その打球を追って背走したメイズは本塁に背を向けたまま激走してフェンスの前でグラブに打球を収めた。そして球を捕るや否や振り返りざまに三塁方向に送球して二塁走者のタッチアップでの三塁への進塁を諦めさせた。このメイズの超ファインプレーは後に「ザ・キャッチ」と呼ばれ、カーン記者が書いた『誰も彼の頭上を越える打球を打つことなど出来ない』ことを証明したかのようなメジャーリーグ史に残るスーパープレーであった。
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