リヴァプール時代
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「ルイス・ハビエル・ガルシア・サンス」の記事における「リヴァプール時代」の解説
2004年8月、CDテネリフェ時代の恩師ベニテスが指揮を執っていたプレミアリーグのリヴァプールFCに移籍した。移籍金は600万ポンドであり、背番号10を譲り受けた。そもそもエル=ハッジ・ディウフの控えとして加入したが、ディウフの代役以上の存在であることを証明し、チームの攻撃陣に欠かせない構成要素となった。8月29日のボルトン・ワンダラーズFC戦(0-1)でプレミアリーグデビューしたが、正当だと思われた得点はオフサイドという判定で認められなかった。9月11日にアンフィールドで行われたウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC戦(3-0)で移籍後初得点を決め、2005年3月20日のマージーサイド・ダービー(エヴァートンFC戦、2-1)でも得点するなど、2004-05シーズンはリーグ戦で8得点を積み重ねた。UEFAチャンピオンズリーグでは、準々決勝のユヴェントスFC戦ファーストレグで放ったドライブシュートが決勝点となり、準決勝のチェルシーFC戦の4分に決めた得点は相手のジョゼ・モウリーニョ監督から「ゴースト・ゴール」と呼ばれる疑惑の決勝点となった。5月25日にはACミランとの決勝戦(3-3)に出場してPK戦の末に勝利し、2004-05シーズンはUEFAチャンピオンズリーグのタイトルを獲得するとともに公式戦を通じて13得点を挙げ、キャリアの全盛とも言えるシーズンとなった。 2005年夏のUEFAスーパーカップ・PFC CSKAモスクワ戦(3-1)ではチームの3点目を決めてタイトル獲得に貢献した。2005-06シーズンは大きなインパクトを残せなかったが、FAカップ準決勝でチェルシーを下したゴールのように重要な得点をいくつか奪った。準決勝後のリーグ戦(皮肉にもウェストハム・U戦であった)で退場処分を受け、決勝のウェストハム・ユナイテッドFC戦には出場できなかったが、チームはPK戦の末に勝利して優勝した。2007年1月10日、フットボールリーグカップのアーセナルFC戦(3-6)がリヴァプールでの最後の試合となった。この試合で右膝の前十字靱帯を損傷し、少なくとも6か月は戦線離脱することになった。リヴァプールでは公式戦121試合に出場して30得点を決めたが、このうち10得点はUEFAチャンピオンズリーグで決めたものであり、この10得点の半分は2004-05シーズンの同大会決勝トーナメントで決めた得点だった。サポーターとの関係は良好であり、You Are My Sunshineというチャント(Luis García, he drinks Sangria / he came from Barça to bring us joy! / He's five foot seven, he's football heaven / So please don't take our Luis away!)が頻繁に歌われた。リヴァプールのウェブサイト上で行われた、「コップ(リヴァプールサポーター)に衝撃を与えた選手100人」を選ぶオンライン投票によると、現役選手としてはジェイミー・キャラガーとスティーヴン・ジェラードに次ぐ43位という高位置にランクインした。2007年8月21日にはリヴァプールTV がルイス・ガルシアからサポーターに向けられたメッセージを放送し、多くのファンを感動させた。
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リヴァプール時代
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「ラファエル・ベニテス」の記事における「リヴァプール時代」の解説
2004-05シーズンからはイングランドプレミアリーグ・リヴァプールFCと契約を結ぶ。リヴァプールFCでは、就任1年目にして、UEFAチャンピオンズリーグで優勝。特にミランとの決勝戦はチャンピオンズリーグ史に残る名勝負であった。 2005-06シーズンにはFAカップを獲得。 2006-07シーズンには再びUEFAチャンピオンズリーグ決勝進出を果たすも、2年前の雪辱に燃えるミランの前に敗れた。 2007-08シーズンはクラブのオーナー交替があり、補強方針などをめぐってオーナーとベニテスの関係は一時険悪となった。オーナー側はベニテスを解任し、ユルゲン・クリンスマンを後任に据えることを画策するが、サポーターがベニテス支持を表明してデモ行進などを行ったため、ベニテスは続投となった。このシーズン、UEFAチャンピオンズリーグは準決勝まで勝ち上がったものの、チェルシーFCに敗退し、無冠に終わった。 2008-09シーズン開幕前にも辞任の噂が流れたが、リーグ戦で2位、UEFAチャンピオンズリーグでは準々決勝進出の結果を残した。 2009-10シーズンはリーグ戦7位と低迷し、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃した。また、UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグで敗退し、UEFAヨーロッパリーグでも決勝に勝ち残ることができなかった。 2010年6月3日、5年契約のうち4年を残しての契約解除に同意し、両者合意により退団した。
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