リヴァプール伯爵内閣の外務大臣として
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「ジョージ・カニング」の記事における「リヴァプール伯爵内閣の外務大臣として」の解説
ロンドンデリー侯爵の自殺を受けて、首相リヴァプール伯爵の求めにより、外務大臣兼庶民院院内総務に就任することになった(在任:1822年9月 - 1827年4月)。在イギリスロシア大使の夫人でカニングと敵対していたダリヤ・リーヴェンは1822年秋に「野党は彼を嫌い、国王は彼を嫌がり、大臣たちは彼を信用しなかった。彼の追従者は海洋の一滴にすぎず、それを除けば彼を尊敬するイギリス人は存在しない。これらの多くの理由にもかかわらず、世論は彼の就任を要求した。」と評したという。 カニングの前任者たちはウィーン体制を支持したが、カニングはウィーン体制を支えた盟約である神聖同盟(ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国)とは一線を画した外交政策を行った。例えば、就任直後に五国同盟の間で行われたヴェローナ会議(英語版)ではスペイン立憲革命への介入が討議され、フランスなど諸国が介入に賛成したが、カニングはイギリス代表のウェリントン公爵にイギリスの不干渉を宣言するよう命じた。ほかにもロシアのレヴァント進出を阻止する意図でギリシャ独立を支援し(具体的な施策としてはギリシャを国際法における交戦国(belligerent)として承認した)、またラテンアメリカで起こっていたスペインからの独立運動を、自国の市場拡大をもくろんで支持する立場をとったことでも知られ、1823年10月には在イギリスフランス大使ジュール・ド・ポリニャックにスペイン政府による米州植民地奪回への(フランスからの)援助を禁じる覚書を署名させた。同年12月のモンロー教書で米国に先手を打たれたが、カニングはこれを利用した上でポリニャックとの覚書を公開して、ラテンアメリカの独立運動に関するヨーロッパでの外交会議の開催を阻止した。そして、1824年12月31日にはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(現アルゼンチン)、第1次メキシコ合衆国、グラン・コロンビアの独立承認をジョージ4世から引き出した。これらは以降のイギリス政府の「自由貿易帝国主義」の基礎となった。ただし、同盟国との政策の違いにより同盟国の在イギリス大使と敵対するようになり、またオーストリアのクレメンス・フォン・メッテルニヒはカニングの追い落としに動いたとされる。 国内では、蔵相フレデリック・ロビンソン、商務庁長官ウィリアム・ハスキソン、内相ロバート・ピールらとともにリベラル派として行動した。彼らの活動と「反動派」シドマス子爵(アディントンが1805年に叙爵)の引退が重なって、リヴァプール伯爵内閣は反動的性質を改めて「自由トーリー時代」と呼ばれる改革路線に舵を切るようになった。 しかしカニングらリベラル派閣僚は保守的な閣僚ウェリントン公爵やエルドン伯爵(英語版)(エルドン男爵が1821年に叙爵)らと対立を深めていった。とりわけカトリック解放問題で閣内分裂は深刻化した。これは17世紀以来イングランド国教会信徒にしか公務就任が認められていない現状に対してカトリックの公務就任を認めるべきか否かという問題であったが、この問題ではカニングとハスキソンがカトリック解放を支持する一方、ピールがカトリック解放に強く反対していた。先王ジョージ3世もこれには頑なに反対しており、ふだんは仲のよくなかった息子のジョージ4世もカトリック解放については同意見であった。 首相リヴァプール伯爵は一貫して閣内融和に努め、カニングもピールもリヴァプール伯爵内閣を存続させることでは一致していたものの、1827年2月にリヴァプール伯爵が脳卒中で倒れたことで情勢は変化した。大臣の任免権を取り戻したジョージ4世はカニング、ピール、ウェリントン公爵の3人と個別に会談した。カニングとピールはともに相手の内閣で閣僚になることを拒否したため、国王ジョージ4世としてはどちらかを切らねばならなかった。国王はカニング、ピールともに嫌っていたが、最終的にはカニングに組閣の大命を与える決断を下した。
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