リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:25 UTC 版)
「フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)」の記事における「リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚」の解説
ロビンソンは1817年夏に陸軍支払長官を辞任、1818年1月24日に商務庁長官に、2月5日に海軍会計長官(英語版)に任命され、閣内相へ昇格した。その後も1819年に治安六法の1つである煽動集会禁止法(英語版)を支持、1822年4月にジョン・ラッセル卿の議会改革動議に反対するなど議会で度々演説した。 1823年にはニコラス・ヴァンシッタート(英語版)の後任として財務大臣に栄転した。同時期に外務大臣となったジョージ・カニング、商務庁長官ウィリアム・ハスキソンらとともに「トーリー党自由主義派閣僚」として知られ、リヴァプール伯爵内閣が反動から自由主義に路線転換する上で重要な人物の一人となった。ロビンソンは財務大臣として自由貿易を推進し、鉄、石炭、羊毛、麻などの原材料からコーヒーやワインなどの酒類に至るまで様々な品種の関税を切り下げていった。これにより産業は振興し、失業率も減り、景気も回復した。1825年のロンドン金融危機(英語版)も金融改革を行うことで乗り切った。財務大臣という要職の重圧もあり、ロビンソンは1826年12月に貴族への叙爵とより職務の軽い官職に移ることを望んだが、リヴァプール伯爵の説得により庶民院に留まることに同意、一方で財務大臣への留任については「暫定措置として扱われるべき」と述べた。1827年2月にリヴァプール伯爵が病気に倒れると、ロビンソンの叙爵と首相就任という計画がカニングと初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの間で討議されたが、実現しなかった。 そして、カニングが首相に就任すると、ロビンソンは1828年4月にゴドリッチ子爵に叙され、貴族院議員となる。同月に成立したジョージ・カニング内閣には陸軍・植民地大臣として入閣したが、同年8月8日早朝にカニングは急死した。
※この「リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚」の解説は、「フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)」の解説の一部です。
「リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚」を含む「フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)」の記事については、「フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)」の概要を参照ください。
- リヴァプール伯爵内閣・カニング内閣の閣僚のページへのリンク