十字軍国家との戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 19:34 UTC 版)
フレグの跡を継いでイルハン国のハン(君主)となったアバカが積極的な攻撃を展開できない状況を見て、バイバルスは中東に残存する十字軍国家に目を移す。1261年にキリスト教領主たちがバイバルスに和平を申し出、バイバルスは和平と捕虜の解放に同意した。しかし、和平にあたってキリスト教勢力に課した条件は実行されず、バイバルスは報復としてナザレの聖母教会を破壊した。1263年4月末にバイバルスはエルサレムに入城し、キャラバンサライ(隊商宿)の建設、岩のドームの修復を行い、聖地の領有を内外に誇示した。 1265年ごろまではマムルーク朝は十字軍国家に対して散発的な攻撃しか行っていなかったが、キプチャク・ハン国、シチリア、ビザンツとの同盟が成立し、十字軍への包囲が強化される。1265年より、バイバルスは十字軍国家との戦争を本格的に開始する。1266年に聖ヨハネ騎士団の支配下にあるサファドを攻略、戦後バイバルスは助命の約束を破棄し、2,000人に及ぶ騎士団員を処刑する。サファドの城壁には、バイバルスの勝利を記念する言葉が刻まれた。同年10月にキプロス王国からサファド奪回の軍が送られるが、マムルーク軍はキプロス軍を撃退する。 フレグの征西においてモンゴル軍に軍事力を提供していたキリキア・アルメニア王国も、バイバルスの攻撃の対象となった。バイバルスはキリキア・アルメニア王国に従属を促す使者を送るが拒絶され、同年にカラーウーンとハマーのアイユーブ王族アル・マンスールが率いる軍をキリキアに派兵した。アルメニア軍を破ったマムルーク軍はキリキア各地を破壊し、アルメニアの王子レオンを捕虜とした。和平を乞うアルメニア王ヘトゥムに対し、バイバルスは領土の割譲とフレグの元に捕らえられている旧友のシャムスッディーン・ソンコル(「赤毛の」ソンコル)の釈放を和平の条件として突き付けた。バイバルスが出した条件は全て受け入れられ、1267年6月にマムルーク朝とアルメニア王国の間に和平が成立する。 1268年には、ジャッファ(テルアビブ)、アンティオキア(アンタキヤ)を立て続けに屈服させる。16,000人に達するアンティオキアの守備隊を虐殺し、100,000人の市民を捕虜とした。マムルーク軍によってアンティオキアの町に火が放たれ、町は深刻な被害を被った。翌1269年に書簡を携えたアバカからの使節団がバイバルスの元を訪れた。アバカは書簡の中でバイバルスのクトゥズ殺害を責め、エジプトへの攻撃を宣言したが、バイバルスは自身が民衆に支持されており、かつマムルーク軍はモンゴル軍と戦う準備ができていると答え、使節団を追い返した。1270年にキプロス島に艦隊を派遣するが、航海中に暴風雨に遭って艦船の大部分が沈没した。キプロス王ユーグ2世から艦船の乗組員を捕虜としたことが伝えられるが、バイバルスは暴風雨による偶然の勝利は戦闘での勝利に及ばないと意に介さず、嵐に遭わなければキプロス征服は成功していたと豪語した。 キプロス遠征と同じ1270年にルイ9世がエジプトに進軍している情報が届くが、ルイ9世率いる十字軍は目的地を変えてチュニスに上陸し、エジプトに上陸することは無かった(第8回十字軍)。ルイ9世の進軍を知ったバイバルスはトリポリ伯国の攻撃を中止して軍をエジプトに呼び戻すが、ルイ9世の死を知ると再びシリアに出兵し、難攻不落の城砦であるクラック・デ・シュヴァリエを攻撃する。テンプル騎士団が守るサフィタ城を陥落させた後にクラック・デ・シュヴァリエを攻撃するが、城内に籠る騎士団の突撃と、堅牢かつ複雑な城砦の構造はマムルーク軍の行く手を阻んだ。1271年4月8日、バイバルスが出した偽のトリポリ伯の降伏命令を受け取った城内の騎士団員はトリポリに退去し、クラック・デ・シュヴァリエを陥落させた。 一連の十字軍との戦闘でバイバルスは背信行為に対する非難と勝利への称賛を受け、中東のキリスト教徒はバイバルスを「カエサルのごとき英雄、ネロのごとき暴君」と恐れた。十字軍に勝利を収めたバイバルスは、投降したキリスト教徒の首に折れた十字架をかけ、逆さにした軍旗を持たせてカイロに凱旋した。十字軍が使用できないように、占領した多くの都市を徹底的に破壊したが、内陸部の重要な拠点であるサファドは補修し、再使用した。軍事作戦の過程でバイバルスはアッコンのエルサレム王国政府を無視し、各都市のキリスト教徒領主と個別に休戦条約を結んだ。一連のバイバルスの進攻に対するキリスト教勢力からの反撃はごく軽微なものであり、重要と言える野戦は発生しなかった。バイバルスがキリスト教勢力から収めた勝利は、カラーウーン、アシュラフ・ハリールの治世に達成される十字軍国家掃討の基盤を作りあげた。 また、バイバルスは十字軍勢力との戦争と並行して、1268年から十字軍勢力から援助を受けているシリア北部の暗殺教団と交渉を行った。教団が十字軍との戦争の障害となると考え、1270年から3年の間に彼らの勢力を壊滅させた。
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