十字軍国家との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 03:16 UTC 版)
「カロヤン・アセン」の記事における「十字軍国家との戦い」の解説
ブルガリア正教会とローマ教会の合同が成された直後、1204年にコンスタンティノープルを占領した第4回十字軍によってラテン帝国が建国される。カロヤンは十字軍に反東ローマ同盟の結成を呼び掛けていたが提案は受け入れられず、新たに建国されたラテン帝国は旧東ローマ領と周辺国家を征服する意図を顕わにした。1205年にラテン帝国に対して反乱を起こしていたトラキアの東ローマ貴族は、コンスタンティノープルを奪還した際には彼を東ローマ皇帝に推戴する条件でカロヤンに援助を求めた。 ブルガリアは東トラキアの住民を扇動して蜂起を起こさせ、遊牧民のクマン人とルーム・セルジューク朝の助力によってフィリッポポリス(現在のプロヴディフ)とアドリアノープル(現在のエディルネ)を占領した。1205年4月14日にブルガリア軍とラテン帝国軍はアドリアノープル近郊で戦闘し、ブルガリア軍はラテン帝国軍に大勝する。ラテン皇帝ボードゥアン1世とブロワ伯ルイ1世はブルガリア軍の捕虜となり、タルノヴォで処刑された。セレスとフィリッポポリスの戦闘でもブルガリア軍は勝利し、ブルガリア軍は広範囲にわたるトラキア・マケドニアのラテン帝国領を破壊した。 東ローマ貴族たちは当初カロヤンの勝利を喜んだが、結局はカロヤンに反逆した。カロヤンは彼らが住む東トラキアで破壊と略奪を行い、捕虜にした住民をドナウ川沿岸部に移住させた。かつて「ブルガリア人殺し」と呼ばれた東ローマ皇帝バシレイオス2世のように、カロヤンは「ローマ人殺し」(Rōmaioktonos)の渾名で呼ばれるようになった。 1206年1月31日にカロヤンはRusionの戦い(en:Battle of Rusion)でラテン帝国軍を再び打ち負かし、ディモティカ(英語版)を占領する。ブルガリア軍はトラキア各地の都市を破壊し、ロドスト(現在のテキルダー)などの都市を攻撃した際には住民に退避が勧告された。後年カロヤンが行った軍事行動には大規模な住民移動も含まれており、占領地の住民は遠く離れた別の土地へ移動させられた。
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