十字軍国家の君主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 05:42 UTC 版)
詳細は「ヒッティーンの戦い」、「en:Siege of Jerusalem (1187)」、および「 第3回十字軍」を参照 1170年代に、エメリー・ド・リュジニャンはイングランド王リチャード1世(この時アキテーヌ公でもあった)により、領地から追放され、エルサレムにたどり着いた。ポワティエ近くのその領地はリュジニャンの本拠地が含まれていた。エメリーはボードゥアン・ディブランの娘エシーヴと結婚し、エルサレム宮廷に出入りするようになった。エメリーはまた、エルサレム王ボードゥアン4世の王母でヤッファおよびアスカロン伯領を有し、シドン領主レジナールと再婚していたアニェス・ド・クルトネーの庇護を得ることができた。エメリーはヤッファにおけるアニェスの軍司令官(Constable/Connétable)に任命され、後にエルサレム王国の軍司令官となった。敵対派の間ではエメリーはアニェスの愛人と噂されたが、真相は不明である。彼の出世は、イブラン家から彼を引き離す目的があったと見られている。イブラン家は、アモーリー1世の従兄弟でエルサレム摂政をつとめた レーモン3世と近しい関係にあった。エメリーの弟ギー・ド・リュジニャンは、1180年のイースターより前にエルサレムを訪れた。兄エメリーの助言によってギーがエルサレム行きを決めたという、エルノールの記述の通りでなければ、いつギーがエルサレムに到着したかは全く不明である。現代の多くの歴史家は、ギーは1180年にはすでにエルサレムである程度の地位を築いていたとしているが、それを裏付ける同時代の記録等はない。ただ、エメリーの成功がギーの社会的、政治的出世を助けたことは確かである。 より古い文献(ギヨーム・ド・ティールやエルノールからの引用)によると、アニェスはトリポリ伯レーモンに斬首された政敵がアニェスの娘シビーユを自分たちの選んだ相手と結婚させて操ろうとしていたことを憂慮し、この計画を潰すために息子にシビーユとギーを結婚させるよう忠告した、と言われている。しかし、王は昔の歴史家が述べるほど従順ではなく、王自身が国家間の関係を考えた結果とみられている。シビーユが在地貴族とでなく、外部からの王国への援助を集めることが出来る人物と結婚することが必須となっていたのである。新フランス王フィリップ2世はまだ若く、望みの綱はボードゥアンの従兄弟ヘンリー2世であり、トマス・ベケットの事で教皇により懺悔の巡礼の義務を課せられていた。ギーはアキテーヌ公リチャードおよびその父ヘンリー2世の家臣であり、かつて叛いた家臣として、ギーを国外にとどめておく必要があった。 ギーとシビーユは1180年の復活節に急いで結婚し、明らかにエメリー・ド・リュジニャンの義父ボードゥアン・ディブランとシビーユを結婚させようとしていたレーモン一派による反乱を防ごうとしていた。この結婚によりギーもまたヤッファ伯、アスカロン伯およびエルサレムのバイイとなった。ギーとシビーユとの間にはアリスとマリアの2人の娘が生まれた。シビーユはすでに前夫グリエルモ・ディ・モンフェッラートとの間に息子を儲けていた。 野心的なギーは、1182年初頭にボードゥアン4世に自身を摂政とするよう説得した。しかし、ギーおよびルノー・ド・シャティヨンは2年の停戦期間の間にサラディンに対し挑発行為を行った。しかし、ケラクの占領においてギーが躊躇したことで、王はギーに失望した。1183年後半から1184年にかけて、ボードゥアン4世は姉とギーとの結婚を解消させようとした。ボードゥアン4世は忠実な人物と姉が結婚することを望んでおり、ギーの頑固さと不服従に不満を抱いていた。シビーユはアスカロンに留め置かれた。シビーユとその息子をギーから引き離すのに失敗した王と高等法院は、シビーユの息子ボードゥアンをシビーユより高い王位継承順位につけ、シビーユとイザベルに関してもその後の王位継承について取り決めた(ボードゥアンと高等法院はイザベルにシビーユと同等の王位継承権があるとした)。1186年にボードゥアン5世が死去した後、ギーとシビーユは軍を率いて、葬儀のためエルサレムに向かった。シビーユはギーとの結婚を解消することを条件に、エルサレム女王とされた。その代わりに、シビーユは自らが選んだ人物と結婚することが出来るとされたが、シビーユは家臣たちの反対の中、ギーとの再婚を選んだ。 ギーがエルサレム王であった期間は、災難続きであった。1187年、ギーはサラディンにヒッティーンの戦いで敗北し捕らえられ、ダマスカスに連れて行かれ、サラディンは王国の大半を征服した。ギーは解放され、ギーとシビーユはティールへ避難しようとしたが、イザベルの夫コンラート・ド・モンフェラートに阻まれた。アッコの包囲の間の1191年に、シビーユと2人の娘が死去し、これによりイザベルがエルサレム女王となった。ギーはリマソールへと向かい、イングランド王リチャード1世に会いキプロス征服に参加し、リチャードの婚約者を捕らえたキプロス太守に報復した。その後、リチャードとギーはアッコの占領に戻った。リチャードはエルサレム王位への要求を断念しギーを支持した。一方フランス王およびオーストリア公は親類にあたるコンラートを支持した。この争いの中、最終的にコンラートは暗殺された。リチャードは投票で決しようとしたが、コンラート側が勝利し、ギーには不利な状況であった。 リチャードはキプロスをテンプル騎士団に売り渡し、さらにギーに売り渡した。ギーは1194年に死去し、キプロスは兄エメリーが継承した。ローマ皇帝ハインリヒ5世はエメリーを初代キプロス王に戴冠し、1197年にはエメリーはエルサレム女王イザベル1世と結婚し、リュジニャン家に再びエルサレム王位がもたらされた。エメリーが王として最初に行った行動の1つが、ムスリムと5年の休戦を結んだことであった。
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