その後の王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 00:53 UTC 版)
第4代王の昭王は、楚に対して遠征したが周軍の大部分が戦死した。第5代王の穆王は西王母を訪ねたという伝説で知られている。領土は徐により失われた。おそらくは、かつて王の兄弟が保持していた領土が三従兄弟、四従兄弟に渡り、王と封建領主との間の家族関係が薄くなったために、穆王の長い治世の間に王朝が衰退していったとされる。周辺領土もまた、周王一族と同じように、地方で権力と威信を高めていった。 その後の4代の王(共王、懿王、孝王、夷王)については文献が乏しい。第9代王の夷王は斉の哀公を鼎で釜茹でにしたと言われ、このことは封建領主がもはや従順でなくなったことを意味している。第10代王の厲王(紀元前877年–紀元前841年)は追放され、14年ほど共和の摂政が続いた。厲王の追放は、中国で最初に記録された農民の反乱によるものである。厲王が追放先で亡くなると、共和が終わり、息子の宣王(紀元前827年–紀元前782年)が権力を握った。宣王は周王朝の権威維持に努めたが、諸侯はますます従わなくなった。西周の第12代王にして最後の王は幽王(紀元前781年–紀元前771年)であった。幽王が妻と側室を入れ換えると、紀元前771年に先妻の強大な父申侯が犬戎とともに西の首都鎬京を攻め、幽王は殺された(申侯の乱)。このことにより地方で戦争が始まり、秦が統一するまで続いた。学者の中には、鎬京侵略が、スキタイが西方に拡大する前にアルタイ山脈から襲撃したことに関連する可能性があると推測している。周の貴族のほとんどが渭水流域から撤退して、下流域にあった古い東の首都洛邑(現代の洛陽)付近に遷都した。これにより東周が始まり、慣習的に春秋時代と戦国時代に分けられている。 周王は収入のほとんどを渭水流域の王領から得ていた可能性がある。これは、周王朝が東遷してから急激に権力が衰退したことで説明されるが、証明するのは難しい。この数十年で、考古学者は周王朝の追放後に渭水流域で埋もれた、かなりの数の宝物庫を発見している[要出典]。このことは、周の貴族が突然に故郷から追放され、帰還を望んだが、実現することがなかったことを意味している。
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