王威とは? わかりやすく解説

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おう‐い〔ワウヰ〕【王威】

読み方:おうい

王のもつ威光威厳


王威Wang Wei

オウイ
ワウヰ

(?~?)

劉琮の臣。

建安十三年(二〇八)、曹操軍勢襄陽到着すると、劉琮荊州こぞって降服し劉備夏口へと逃走した。このとき王威は「曹操将軍帰参劉備敗走受けて必ずや懈怠して防備をせず、軽々しく単独進んでまいりましょう。王威に奇兵数千お貸しいただき要害潜んで迎撃すれば曹操生け捕りできます曹操生け捕りにいたせば威光天下轟きいながらにして虎のごとく歩み中原広とはいえ檄文を飛ばすだけで平定できましょう一度勝利急場凌ぎ留まるものではございませぬ。これこそまたとない機会逃してはなりませんぞ!」と進言したが、劉琮聞き入れなかった《劉表伝》。

参照曹操 / 劉琮 / 劉備 / 夏口 / 荊州 / 襄陽県


王威

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/12 05:05 UTC 版)

王 威(おう い、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。

正史の事跡

姓名 王威
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 劉表劉琮
家族・一族 〔不詳〕

王威は若くして荊州の郡吏となった。刺史の劉表が「有益で時事に適した陳情であれば、身分の貴賤を問わず聞く」と布告を出した。王威は陳事を評価されて州刺史の官吏となり、大蝋(年の暮れ)に交替で休暇を取った[1]

続いて劉表の子劉琮に仕えた。曹操が大軍を率い荊州に侵攻して来ると、劉琮は戦わずして降伏し、劉備も逃走した。このとき王威は「曹操は我が軍を降し劉備も退けたため、安心して備えを緩めているに違いありません。私に兵数千を預けていただければ、曹操を捕虜にしてみせます。曹操を捕らえれば天下も夢ではありません」と劉琮に申し出た。しかし、劉琮はこれを容れなかった。その後の王威の行方は不明である。

物語中の王威

小説『三国志演義』では、劉表の部将として登場。劉備暗殺を謀る蔡瑁の指示で、同僚の文聘とともに劉備の傍らから趙雲を引き離す役を担う。曹操が荊州に入ると隙をついて襲撃することを進言したが、蔡瑁と「汝は天命を知らず!」「売国の徒め!」など罵りあいとなり蒯越に仲裁された。その後は、青州へ転任させられた劉琮にただ一人付き従い、その母の蔡夫人らの護衛となる。しかし、曹操の命を受けた于禁が母子の殺害に来ると、力戦したが劉琮らとともに皆殺しにされている。

脚注

  1. ^ 『初学記』《王威別傳》曰:威少為郡吏。刺史劉表題門上,有能陳便宜益於時,不限廝役賤長以聞。威因陳事,得署州吏,大蠟分休。

参考文献




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