舜天王統について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 14:40 UTC 版)
舜天王統は、舜天を祖とする王統の通称名で、1187年(淳煕14年)から1259年(開慶元年)、3代73年続いたとされる。しかし、この王統自体、存在さえ不明であり、実在しない伝説上の王統と考えられる。15世紀または16世紀頃、第二尚氏が天孫氏、舜天、英祖の子孫であると称するようになって、史記に系譜的に組み立てたものと思われる。 舜天王統の各王の名前は、『おもろさうし』や『歴代宝案』に見受けられる琉球人の名前における漢字・かな表記とは特殊で、後世になって付けられた諡(おくりな)ではないかと思われる。『中山世譜』によれば、各王の姓を、「源(みなもと)」としている。これは、初代・舜天の父とされる「鎮西八郎為朝公」(源為朝)によるが、根拠のあるものではない。 『中山世譜』によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き、舜天やその後の王統も首里城を居城としていたという。しかし、舜天王統は浦添城を居城としていたと伝えられ、首里に遷都したのは、察度王統もしくは三山統一後の第一尚氏王統と思われる。 『中山世鑑』によれば、舜天以降、「琉球国中山王」を継承したとしているが、「琉球国中山王」と君主号を自称したのは、明の朱元璋から招来を受けた察度が始まりとされ、次代の武寧以降から、明より「琉球国中山王」として冊封を受けた。しかし、舜天王統が統治していたとされる頃は、小規模のグスクが各地に点在し、沖縄本島全域を支配した人物は存在しなかったとされ、浦添を拠点とし、沖縄本島中部地域に影響を及ぼしていたと考えられる。 喜舎場一隆は、舜天王統はそれ以前の伝説的王統とは異なり、少なくとも実在した王統の祖とされ、その舜天は、源為朝が1165年(長寛3年)3月に大島を脱出して鬼ヶ島に渡り、沖縄北部の運天港に上陸、豪族大里按司の妹と通じて尊敦(そんとん)を生み、その尊敦が舜天であるが、これは「鬼ヶ島 = 琉球」説から始まり、これらは羽地朝秀(向象賢)の『中山世鑑』に明記されているが、源為朝の伝承は1609年の薩摩の琉球侵入以前からすでにあり、袋中の『琉球神道記』、1543年の『かたのはなの碑』、1546年の『漆継御門北之碑』などの碑文記にも明記され、『中山世鑑』を溯ること100年以前にはすでに存在しており、したがって薩摩の琉球侵入後に「日琉同祖論」を提唱した羽地朝秀の作為とも断定できないが、舜天の実在についての疑問は、舜天の活動期がオモロの盛行期の13世紀初頭でありながら、他の四王統(英祖王統・察度王統・第一尚氏・第二尚氏)の始祖がオモロで聖王として謡われているのに対して舜天が脱落していることであり、舜天の実在はオモロからすると否定的に考えられるが、1543年の碑文記に「大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ」と明記されている以上、舜天の実在はまったく否定することもできない、と述べている。
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