舛田利雄・深作欣二の登板
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「トラ・トラ・トラ!」の記事における「舛田利雄・深作欣二の登板」の解説
1969年2月18日、20世紀フォックスのダリル・F・ザナック社長、 世界広域製作本部長・リチャード・D・ザナック副社長の連名で「舛田利雄・深作欣二が正式に決定、1969年3月3日から撮影を再開する」と正式に発表された。記者会見はされず、エルモの名で書面がマスメディアに送られ、20世紀フォックスと黒澤監督ならびに黒澤プロとのあらゆる関係は解消された等の説明が書かれてあった。実際はまだこの時点では舛田の監督は決定しておらず、エルモが駆け回り1969年2月29日、日活でアクション映画の旗手として活躍していたベテラン監督の舛田と交渉を持ち、1969年3月3日、20世紀フォックスは舛田と正式の契約書を取り交わした。2月17日に既に正式に舛田の監督が決定したと報道するものもあり、2月18日の早朝から舛田はエルモや高木雅行アシスタント・プロデューサーが主として配役について打ち合わせし、その合間にマスメディアの取材に応じ、「シナリオは黒澤さんが日本人の心をビシッと描き抜いて完璧だ。私自身はアクションが得意なのでその特技をこの作品に活かしたい。共同演出はあと、二、三日で正式に決まる。決定権はすべてエルモ氏にあるのでそれ以上は分からない。キャスティングは一週間以内に決める。撮影・編集とも監督がやる日本の映画界育ちとしては編集権がないのは気になるが、しかし今さら条件を出してもムダだと思う。黒澤監督にはある人を通じて二日ほど前に『お会いしてお許しをいただきたい』と伝えてもらったが断られた。私自身は誰であれ日本人の手で完成すべきだと思い引き継いだので、これは分かっていただきたい」「この作品を日本人が分担して完成させることは、今までともすると国辱的な合作映画が多かっただけに大きな意味があると思う」などと話した。また共同演出には深作欣二が内定したと1969年2月19日に報じられた。深作は「演出の話は受けているがまだ正式決定を見たわけではない」と話した。 20世紀フォックスが舛田を選んだのは、舛田自身は「20世紀フォックス製作の『素晴らしきヒコーキ野郎』に石原裕次郎が出演する際に、私が監督をした『赤いハンカチ』を参考試写で見たからだと思う」と話してる。また舛田は1968年12月に黒澤の解任が検討されていた頃、20世紀フォックスから「東映京都に来てすぐに撮ってくれ」と連絡があったが、まだ黒澤の降板が発表されてない時期できっぱり断った。20世紀フォックスから「今後、連絡するから、他の仕事を請け負わないで待っていてくれと言われていた」と話している。 三船と市川に断られた後、監督オファーを受けた舛田は「黒澤さんのためにも、この映画をお手伝いしようという気持ちと、ハリウッド映画からのオファーという理由で引き受けることにした」と述べている。大作を全部一人で撮りきれないと20世紀フォックスに話すと、20世紀フォックスから「もう一人、誰かお前が一番やりやすい監督を立てろ」と言われその人選を一任された。大作を若輩がトップで受けるのはおこがましいと考えた舛田は、ちゃんとした人に自分の上に立ってほしいと考え、松竹の野村芳太郎と大映の三隅研次(三隅は舛田との面識は無かった)に共同監督の要請をしたが両人とも別の撮影が入っているとの理由で断られた。やむなく自分がメインでやろうと決意し、以前パーティーで顔を合わせていた東映のアクション映画の旗手、深作欣二に電話を掛け協力を要請。エルモから「深作の映画が見たい」と言われたため、東映の岡田茂製作本部長に頼み、深作のフィルムを二本借りて、20世紀フォックスがそれを参考試写し、深作の共同監督を有力候補に挙げた。深作は『トラ・トラ・トラ!』にあまり関心がなく、軍隊経験もなく、戦争映画も撮った経験もないため、気は進まなかったが舛田に熱心に口説かれ承諾した。 1969年2月17日、エルモが銀座の東映本社を訪れ、岡田茂東映製作本部長と二者会談を持ち、エルモが「(1969年)3月3日から撮影を再開したい。監督については舛田利雄をチーフに、深作欣二監督をスクリーン・プロセスの監督に起用したい」と深作の貸し出しを正式に申し入れ、合わせて(再度)東映京都撮影所のスタジオ借用も申し入れた。岡田は「スタジオ、深作監督の二点とも、東映としてはできる限りの協力は惜しまない」と承諾し、深作の起用が正式に決定した。20世紀フォックスから後に1969年3月24日から4月11日まで、東映京都の四ステージを借用したい旨の正式な申し入れがありこれも承諾した。監督の正式決定は舛田より深作の方が早い。これを受け、深作は同じ日の夜、虎ノ門のホテルオークラにエルモを訪ねて具体的な打ち合わせに入った。深作の担当する部分は黒澤が重要な部分として約40日間のスケジュールを組んでいた箇所で、カット数は50を越える部分。佐藤純弥は黒澤プロとの契約だったため、ギャラ300万円だったが、撮影再開後は20世紀フォックスとの直接契約となったため、深作のギャラは佐藤の四倍で、そのギャラでスカイラインの新車を買い、『軍旗はためく下に』の元金に使ったという。 当時、舛田は日活と専属契約(1969年5月まで)、深作は東映と専属の本数契約を結んでおり、監督同士で勝手に日活や東映作品でもない映画の監督は決められない。
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