黒澤の降板とは? わかりやすく解説

黒澤の降板

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 08:17 UTC 版)

トラ・トラ・トラ!」の記事における「黒澤の降板」の解説

1968年12月2日京都太秦東映京都撮影所『トラ・トラ・トラ!』日本シークエンス撮影開始された。先の記者会見意気大い上がったが、段々妙なことになった撮影最初一週間快調に進んだが、12月10日頃から黒澤疲れ見え12月11日撮影休み翌日再開され三日撮影したが、黒澤疲労回復せず一週間撮影中断。この直後クランクインわずか三週間後の12月24日20世紀フォックスのプロデューサー・エルモが「黒澤極度ノイローゼのため、監督辞退した」と発表した実際解任通知黒澤送った20世紀フォックスは、リチャード・D・ザナック副社長東京出張させて黒澤直接話し合って解決をしようと譲歩したが、黒澤プロ日本プロデューサーで英語が堪能とされた青柳哲郎との連絡マズく、不調に終わり全て打ち切られといわれる黒澤一週間前から過労という理由黒澤病状について、主治医京都大学医学部の計三人医師から「これ以上仕事続けるのはむり、長期療養必要がある」と診断された。黒澤プロ宣伝主任伊東弘祐は「これで黒澤監督20世紀フォックスとの契約切れたことになるが、今後撮影共同監督佐藤純弥氏が12月28日から再開黒澤プロ従来通り協力していく」と話した年を越すセットまで引き揚げ出演者たちとも契約解除黒澤は「どうしても撮影続けたい」と20世紀フォックスダリル・F・ザナック社長に直訴したが答えは「ノー」。1969年1月19日黒澤プロ青柳プロデューサー三人取締役辞表提出し記者会見開いた青柳は「黒澤さんが強度疲労精神障害に陥り、医師診断求めたところ、四週間から八週間入院加療要するということだった」と説明したアメリカの映画作り二十六週と決まれば、それを日割りにし、日報提出する徹底した合理主義で、黒澤時間をかけて考えムード盛り上げ一気に撮る完全主義。これが拒否された。また編集権黒澤が持つか、プロデューサーエルモが持つかという対立もあったといわれる20世紀フォックスは、1969年1月1日付け日本側の全スタッフ解散決定東映京都セット取り壊し始まり20世紀フォックス側の要望で、1968年12月30日黒澤プロから口頭で再契約申し入れられた85人のスタッフも『口頭だから契約成立していない』という理由一方的に解約白紙戻され残務整理始まった1969年1月6日黒澤プロスタッフの手で、首相官邸海軍省戦艦長門長官室の三つセット解体されライトその他の機材借用先の宝塚映画撮影所返却され東映京都から本作関係の設備全てなくなった。これを受け、日本編アメリカ持ち帰って撮影する可能性高くなったと報道された。 佐藤忠男は「詳しいことは分からないが、黒澤氏のハリウッドへ期待大きすぎたのが随所食い違い心労のもとになったではないかそれにしても20世紀フォックスは"世界のクロサワ"を表看板にしていただけPR効果上、ちょっと困るんじゃないだろうか」と述べた。 この三週間の間、撮影はほとんど進まなかった。その原因として黒澤異常なこだわり精神不安定があげられる下記がその例である。 スタッフ作り直し塗りなおしを命じる。当初艦内長官室のセットはわざと使い古したように汚していたが、真珠湾攻撃時の参謀源田実意見役としてこれを見たときに、長官室はすべてがピカピカだったと黒澤意見したであったスタジオ内が危険だとしてヘルメット着用ガードマン常駐求める。 山本五十六役の俳優スタジオ入りするたびにファンファーレ演奏スタッフ全員海軍式敬礼求める。 カチンコ叩き方が悪いといって撮影助手クビにする海軍病院シーンカーテン折りしわがあることに激怒して撮影中止にする。 黒澤が酒に酔った状態で何度もスタジオ現れたこと 黒澤選んだ素人俳優たちが満足な演技行えなかったこと。素人俳優には、実際元海軍人海軍兵学校海兵在籍者もいたが、そのひとりに向かって海軍軍人演技できないとして、「貴様、それでも海兵か!」と黒澤怒鳴ったことが、旧海軍軍人のあいだで問題になったこともあった。 更に20世紀フォックスに対して撮影所半分買い取るようにふっかけたりと無理難題おしつけた。 スタッフからの不満も常に耳に入っており、現場で黒澤の状態を確認していたエルモだったが、なんとか黒澤フォローしながら撮影続けさせようとした。しかし撮影がほとんど進まなかったため、12月24日苦渋の決断下し黒澤直接会ってその監督降板伝えた。 「病気による降板」(黒澤の「病気」の問題は後に映画かけられていた保険支払いに関する争いにつながる)という形で行われた監督降板劇の真相いまだに不明な点が多いが、黒澤20世紀フォックスの間の契約に関する詳細な問題や、撮影方針食い違い黒澤が自らの権限に関して認識不十分だったことなどさまざまな問題背景にあったとされている。また、黒澤自身生前「僕には(軍隊体験戦場体験がないので)戦争映画撮れない客席に弾が飛んでこない限り、あの恐ろしさ伝わらないだろう」と語っていたともいう。この降板劇の経緯から以後日本では黒澤の「気難しい完全主義者」というイメージ強くなったとも言われる。 この降板と「病気名目について、土屋嘉男黒澤本人聞いたところ、黒澤真っ先に「山本五十六長官室に時代劇に使う連判状があったんだよね。怒る方が当たり前だろう?」と情けなさそう答え、「俺は、いつもの俺のやり方でやったんだよ。俺は病気でもなんでもなく元気だよ。君にわかってもらえるけど、そんなことも解らない連中ウヨウヨ居るんだよね」と嘆いている。土屋また、「場所が京都東映だったのがいけなかった。東宝だったら慣れっこになっているので何の問題もなかったと思う。東映がいけないという事ではなく黒澤さんのやる事成す事が一つ一つ奇異見えた違いない当然のことである」と述べている。 さらに土屋は、「当時東映ではヤクザ映画撮っており、本物ヤクザ偽物ヤクザが、撮影所内にウロウロしていた。黒澤さんの最も忌み嫌うヤクザ。そんな最悪環境の中で、一段と自己貫こうとしたに違いない。しかも、身内思い込んでいた日本側の製作者等にも裏切られかつてない傷心一人味わったことと思う」と黒澤一定の理解示している。 山本五十六役にキャスティングされ、黒澤相談相手だった高千穂交易創業者社長の鍵谷武雄は、日刊スポーツ1969年1月19日取材で「フォックス黒澤さんの契約書ニューヨーク黒澤プロ法律顧問であるプライヤー氏と黒澤プロ青柳プロデューサー持っていて、どうしても黒澤さんに渡さない。だから黒澤さんとしては、判断処置もしようがないというのが現状だ。だからフォックス側が何か動くたびに、全て寝耳に水フォックスから多額の製作費が出ていることは確かで、黒澤プロにいくら入っているか分からない一説には5億4000万円フォックスから払われたとか…風の便り聞いただけ。金に関しては、黒澤プロ窪田経理担当重役からも黒澤さんにはほとんど説明はない。黒澤監督は(1969年1月13日14日には、皆さん前に出てお詫びをしようという予定だったが、契約書入手してからでないと話しようがないという。それで1月8日黒澤監督松江助監督と私が通訳として京都行きプライヤー氏と会ったが、二、三箇条について口頭説明するだけで契約書見せてくれない。我々実業家からいえば真に不思議な話で、平沢和重さん、岩田幸彰さんとも、こういうベールかぶったことにはこれ以上タッチしないでおこうということになった責任黒澤さんにあると思う。会社最高責任者仕事取り掛かっていながら、まだ契約書見たとがないなんてのは前代未聞。しかも契約書サインをしていないというのに金は動いている。黒澤さんは黒澤プロ重役である青柳プロデューサーに『契約書渡せ和訳して理解するから』と口を酸っぱくして言っているが、どうにもならない黒澤さんも青柳プロデューサー業務上背任という見方をし始めたんじゃないかと思う。それにしてもかなり深い問題抱えているような気がする撮影始まった頃、黒澤さんが戸惑うような瞬間を私は何回見た初めから辞任追い込むように仕組まれていたのかも知れないそばにいてノイローゼには見えなかった。いきなり東京から医者連れて来てノイローゼでっち上げた。これ以上ノイローゼと言われ続けたら、洗脳教育じゃないが、本当になっちゃいますよ。黒澤さんは私がいくら『やめなさい!』と言っても自費でもやると言ってます。資金担保力がありますから。黒澤さんは『最初モタモタしたが、それが過ぎればトントンといく。それは僕のペースなんだ。約束16週間でやれるんだ』と言ってます。しかし私としては現時点では、一切この映画には関与しないハラ決めました」などと述べた当初B班監督務めた佐藤純彌黒澤降板経緯について「田草川弘著『黒澤明vs.ハリウッド』に書かれている内容は、ちょっと違うなというところもいくつかある。僕たちが見ていて一番苦労されているなと思ったのは、監督としての黒澤明プロダクション社長として黒澤明どうするということですね。相反する要素について特に決まった方針設けことはなかったせいで、次第追い詰められていき、最後の方では嫌でも考えざるを得なくなっていかれた東映京都働いている人たちも映像対す想いは強いんです。ただ、黒澤さんが目指すものとは違うし、東宝みたいに鶴の一声でみんなが動くという習慣もない。また『用心棒以前から俺たち時代劇をやってきたという自負も彼らにはあるわけです。そんなプロとしてプライドが、黒澤さんのプライド違っていたというのはあるかもしれませんね。また黒澤さんが素人多数役者として起用しましたが、現実的に彼らが黒澤さんを満足させられるような演技なんてできるわけがない。でも自分言い出しっぺの手前、彼らに何も言えないその分、どこかにいじめられ役を設けてしまう。そんな折にエルモ現場にやって来て撮影が全く進んでないことに驚いたハリウッドではまず撮影に入る前にスケジュール全部立てて保険会社提出するわけですが、その通りにいかなければ製作者側が保険会社ペナルティを払わなければならないですよ。またエルモ見学してるとき、黒澤さんと照明係がケンカになり、照明係がストライキ始めてしまった。僕は北海道撮影していたんですが、急遽京都戻り照明係を説得してようやくストライキ解除させた。すると今度黒澤さんが現場に来なくなった。それで待機中に日本側のプロデューサー診断書出して黒澤さんは病気のために降板するそうしない保険会社言い訳立たないと言って来た。それで僕に『代わって監督をやってくれ』と言われたけど黒澤さんと一緒に仕事ができるという理由だけで引き受けた仕事だったから、『冗談じゃない黒澤さんが辞めるなら、僕も辞める』とはっきり断った。すると彼らは『何故だ?世界的監督になれるチャンスを棒に振るのか?』と言われカチンときて、思わず「こんなもので世界的監督になんかなりたくねえ!』と言い返したその後引き継ぎ話し合いも何もなく、現場去った。(1968年年末新幹線撮影斎藤孝雄さんや松江陽一録音渡会伸さんら7人で東京帰りました『トラ・トラ・トラ!』残念ながらああいう形で終わってけど、僕はやっぱり参加してよかったと思う。黒澤さんに教わったこともいっぱいありました」などと述べている。 後任監督引き受けた舛田利雄黒澤降板の理由を「思想的なことだとか、金銭的なものだとか、そういうことではなくメンタルな問題聞いた」と述べている。同じく後任監督深作欣二は「[黒澤さんは]きっと素人演技思ったようにうまくいかないんでキリキリしていたんだという話を、東映サイド付いたプロデューサー聞いたことがありました。「やくざ」のこともあってイライラ積み重なり予定どおり進まないなかで、夜、突然セット窓ガラス木刀叩き破っちゃったとか。そんなこんなスケジュール遅延して向こうの心配したプロデューサーと話をするんだけど、[……]話をすればするほどこじれていったというような話を聞きましたね。(角カッコ引用者)」と述べている。東映プロデューサー日下部五朗は「東映京都正門前に赤絨毯敷いて毎朝、すでに扮装済ませた軍人役の俳優たちがそこを通ってスタジオ入りするんです。山本五十六役が立派な車に乗って到着すると、門の脇に水兵恰好をした男が『軍艦マーチ』をラッパで吹く。何とも荘厳珍妙な騒ぎでしたね。ある朝撮影所に行くと、窓ガラス軒並み割られていまして、深夜慣れない東映での撮影ストレスが昂じた黒澤さんが暴れてやった仕業聞きました」などと話している。 押川義行は「このようなケース欧米ではそう珍しいケースでもないが、日本映画界の国際的信用と"天皇"クロサワメンツ今後どうなるかが問題だ。ハリウッド内情に詳しい日本ユナイト映画宣伝総支配人水野晴郎氏の説明によればアメリカ式契約合理主義徹していて、食事カロリーパーセンテージからトイレ個数や状態といったような日常生活問題など細かく契約文書書き込まれ監督演出者としてのパートを受け持つだけで編集立ち会う権利もないのが普通という。『トラ・トラ・トラ!』場合決し例外ではなかったはずで、黒澤監督がこれに対してどこまで妥協しどこまで抵抗したのか、今後為にもはっきりさせておかなければならない『トラ・トラ・トラ!』の製作発表当時20世紀フォックス1969年大作として『ハロー・ドーリー!』と他にジーン・ケリー演出作品予定していたが、『ハロー・ドーリー!』がバーブラ・ストライサンド前作ファニー・ガール』の揉めごと製作開始が遅れに遅れため、製作期間に関する契約上の厳しシワ寄せ『トラ・トラ・トラ!』集中したことは容易にせられるし、黒澤監督の"完全主義"が例によって日数オーバー危機はらんだことも、20世紀フォックス側にとっては見逃せない重大事であった違いない」などと評している。 1969年1月21日黒澤久しぶり報道陣前に現れ赤坂プリンスホテル記者会見過度疲労という理由降ろされとされる事情説明した。「私が今まで口をきかなかったのは(1969年1月9日に私の最終提案電報ザナック社長に送り、その返事待っていたためだ」と話し最終提案とは日本側の撮影経費含めて私が責任持ち、私の思い通りに撮影して完成品20世紀フォックス協定決めた時期までに渡すというもので、それに対す回答中に入って頂いた人から1月20日夜遅くザナック社長の言として「もはやお力ぞえ出来ないような状態になった」という形で伝えられたので、「私としては手を引かざるを得ないし、演出断念する覚悟もした」と説明。「今度事件最大原因は、パンチカード式のアメリカ的撮影手法と、準備費やした時間の分だけ一気撮影する私の方式食違い、さらに双方意志疎通円滑欠いていたことだったようだ。とくにクランクインしたのは、ワシントン日本大使館荻外荘での近衛首相山本五十六会談など、この映画キーポイントになるシーンからで、特に慎重を期したのだが、アメリカ側はなぜ、こんな小さな場面にと納得がゆかなかったらしい。アメリカ映画作り方と、日本に於ける私のやり方食い違っていたことが今度事件発端だと思う」「解任通達切っ掛けになった12月23日も、2324日両日に一シーンずつ撮るところを23日セットの手直し費やし24日午前午後にシーンずつ撮って消化するつもりでいたところ、12月24日ホテルエルモがやって来て問題通達口頭言い渡された」「撮影仕方アメリカ的いかないということは青柳プロデューサー何回伝えてくれと頼んでいたんですが、青柳はやらなかったようなことがたくさありますね。契約書分厚いんで、重要なことは指示したが、忙しくて見る時間がなかったのは事実です。こういうことになって見せてくれ』と頼んで見せてくれないのは納得がいかないエルモは『アメリカでクロサワ病気だから演出をやめる』と発表したという。あの時点で一人映画作家黒澤明社会的にダメにしてしまった。とにかく、いつも僕の知らないところで決定され運ばれていった」「撮影を二回休んだのは、あとの一週間態勢整えるために休んだもので、その一週間のうち四日は、セットが間に合わなかったり、広島ロケ中止になったりしたし、どっちにしても大半は休まなきゃならなかった」などと説明した。「疲れ果てた」とは言ったが元気で、ノイローゼ発作の噂については「今ならそういう診断がおりるだろう」と冗談飛び出し、「夜、セットを見に行った誰もいないので、松江君ガラス割った誰か起きてくるかも知れないと言ってやりました。僕もやり過ぎたようなことはありました」などと話した。「シロウト俳優演技予想上の上出来で、これなら素晴らし作品できそうだ希望持っていた矢先一方的に静養中止告げられ残念で仕方ない三年あたためてきたこのイメージ捨てろといわれることは"死ね"ということ同じだ」と興奮気味に話した当面事後処理に当たり、黒澤プロ役員辞任した青柳哲郎菊島隆三窪田貞弘の三プロデューサーから契約書渡してもらい、内容検討するのが先決問題話した気違い扱いされたがどこも悪くないとの釈明に「黒沢プロ若手重役フォックス組んで演じたお粗末内ゲバ」との論調出た今回事件プロデューサー責任と権限重大性大きくクローズアップされた。 1969年2月16日に『まごころを君に』の宣伝田宮二郎との合作打ち合わせのため来日したラルフ・ネルソン監督記者会見『トラ・トラ・トラ!』黒澤問題にふれ、「最新情報では、フォックス黒澤もう一度やってもらいたいのだが、黒澤が『ウンと言わない聞いた」と話した。 『キネマ旬報1969年5月上旬号に当時白井佳夫キネマ旬報編集長真相究明として調査した黒澤解任事実という記事掲載された。それによると黒澤撮影中に20世紀フォックス弁護士から正式な契約書黒澤のもとに入り黒澤初め見たところ編集権について「世界配給プリント最終編集はフォックスが行う」と書かれていたという。それは日本側の編集権黒澤が持つが最終的にいかなる編集変更も、20世紀フォックス単独に決定しうる独占的権限であった。つまり黒澤下僕で、さらに黒澤驚かせたのは、旧黒澤プロ青柳哲郎プロデューサーシナリオ著作権持っていることが判明したというものだった白井は後に、黒澤を「東宝撮影所スタッフなしでは傑作撮れない限定条件付き天才」と評し、「東宝には監督意向先読みし動け気心の知れたスタッフキャストがいたが、東映京都撮影所単身乗り込んだ進め方異なり大混乱した。また黒澤にはかつては本木荘二郎のような台本読め、ちゃんと意見言え黒澤献身的に奔走する有能なプロデューサーがいたが、現場知らない若いプロデューサー信用したのが裏目に出た。この失敗黒澤限界証明した」と評している。 そもそもはじまり段階で、日米認識のずれがあり、黒澤総監督のつもりでいたが、20世紀フォックスあくまでも日本部分演出担当のつもりであった

※この「黒澤の降板」の解説は、「トラ・トラ・トラ!」の解説の一部です。
「黒澤の降板」を含む「トラ・トラ・トラ!」の記事については、「トラ・トラ・トラ!」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「黒澤の降板」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「黒澤の降板」の関連用語

黒澤の降板のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



黒澤の降板のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトラ・トラ・トラ! (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS