黒澤の降板
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1968年12月2日、京都・太秦の東映京都撮影所で『トラ・トラ・トラ!』日本側シークエンスの撮影が開始された。先の記者会見は意気大いに上がったが、段々妙なことになった。撮影は最初の一週間は快調に進んだが、12月10日頃から黒澤の疲れが見え12月11日撮影休み。翌日再開され三日間撮影したが、黒澤の疲労が回復せず一週間撮影が中断。この直後、クランクインわずか三週間後の12月24日、20世紀フォックスのプロデューサー・エルモが「黒澤が極度のノイローゼのため、監督を辞退した」と発表した。実際は解任通知を黒澤に送った。20世紀フォックスは、リチャード・D・ザナック副社長を東京に出張させて黒澤と直接話し合って解決をしようと譲歩したが、黒澤プロの日本側プロデューサーで英語が堪能とされた青柳哲郎との連絡がマズく、不調に終わり全て打ち切られたといわれる。黒澤が一週間前から過労という理由で黒澤の病状について、主治医と京都大学医学部の計三人の医師から「これ以上仕事を続けるのはむり、長期療養の必要がある」と診断された。黒澤プロ宣伝主任・伊東弘祐は「これで黒澤監督は20世紀フォックスとの契約が切れたことになるが、今後の撮影は共同監督の佐藤純弥氏が12月28日から再開、黒澤プロも従来通り協力していく」と話した。年を越すとセットまで引き揚げ、出演者たちとも契約解除。黒澤は「どうしても撮影を続けたい」と20世紀フォックスのダリル・F・ザナック社長に直訴したが答えは「ノー」。1969年1月19日、黒澤プロの青柳プロデューサーら三人の取締役が辞表を提出し記者会見を開いた。青柳は「黒澤さんが強度の疲労と精神障害に陥り、医師の診断を求めたところ、四週間から八週間の入院加療を要するということだった」と説明した。アメリカの映画作りは二十六週と決まれば、それを日割りにし、日報を提出する徹底した合理主義で、黒澤は時間をかけて考え、ムードを盛り上げ、一気に撮る完全主義。これが拒否された。また編集権を黒澤が持つか、プロデューサーのエルモが持つかという対立もあったといわれる。 20世紀フォックスは、1969年1月1日付けで日本側の全スタッフの解散を決定。東映京都のセットは取り壊しが始まり、20世紀フォックス側の要望で、1968年12月30日に黒澤プロから口頭で再契約を申し入れられた85人のスタッフも『口頭だから契約は成立していない』という理由で一方的に解約を白紙に戻され、残務整理が始まった。1969年1月6日、黒澤プロのスタッフの手で、首相官邸、海軍省、戦艦長門の長官室の三つのセットが解体され、ライトその他の機材も借用先の宝塚映画撮影所に返却され、東映京都から本作関係の設備は全てなくなった。これを受け、日本編もアメリカに持ち帰って撮影する可能性が高くなったと報道された。 佐藤忠男は「詳しいことは分からないが、黒澤氏のハリウッドへの期待が大きすぎたのが随所で食い違い、心労のもとになったのではないか。それにしても20世紀フォックスは"世界のクロサワ"を表看板にしていただけにPR効果上、ちょっと困るんじゃないだろうか」と述べた。 この三週間の間、撮影はほとんど進まなかった。その原因として黒澤の異常なこだわりや精神不安定があげられる。下記がその例である。 スタッフに作り直しや塗りなおしを命じる。当初艦内の長官室のセットはわざと使い古したように汚していたが、真珠湾攻撃時の参謀源田実が意見役としてこれを見たときに、長官室はすべてがピカピカだったと黒澤に意見した為であった。 スタジオ内が危険だとしてヘルメット着用やガードマンの常駐を求める。 山本五十六役の俳優がスタジオ入りするたびにファンファーレの演奏とスタッフ全員に海軍式敬礼を求める。 カチンコの叩き方が悪いといって撮影助手をクビにする。 海軍病院のシーンでカーテンの折りしわがあることに激怒して撮影中止にする。 黒澤が酒に酔った状態で何度もスタジオに現れたこと 黒澤が選んだ素人俳優たちが満足な演技を行えなかったこと。素人俳優には、実際の元海軍軍人、海軍兵学校(海兵)在籍者もいたが、そのひとりに向かって、海軍軍人の演技ができないとして、「貴様、それでも海兵か!」と黒澤が怒鳴ったことが、旧海軍軍人のあいだで問題になったこともあった。 更に20世紀フォックスに対して、撮影所の半分を買い取るようにふっかけたりと無理難題をおしつけた。 スタッフからの不満も常に耳に入っており、現場でも黒澤の状態を確認していたエルモだったが、なんとか黒澤をフォローしながら撮影を続けさせようとした。しかし撮影がほとんど進まなかったため、12月24日苦渋の決断を下し、黒澤に直接会ってその監督降板を伝えた。 「病気による降板」(黒澤の「病気」の問題は後に映画にかけられていた保険の支払いに関する争いにつながる)という形で行われた監督降板劇の真相はいまだに不明な点が多いが、黒澤と20世紀フォックスの間の契約に関する詳細な問題や、撮影方針の食い違い、黒澤が自らの権限に関しての認識が不十分だったことなどさまざまな問題が背景にあったとされている。また、黒澤自身が生前「僕には(軍隊体験、戦場体験がないので)戦争映画は撮れない。客席に弾が飛んでこない限り、あの恐ろしさは伝わらないだろう」と語っていたともいう。この降板劇の経緯から以後日本では、黒澤の「気難しい完全主義者」というイメージが強くなったとも言われる。 この降板と「病気」名目について、土屋嘉男が黒澤本人に聞いたところ、黒澤は真っ先に「山本五十六の長官室に時代劇に使う連判状があったんだよね。怒る方が当たり前だろう?」と情けなさそうに答え、「俺は、いつもの俺のやり方でやったんだよ。俺は病気でもなんでもなく元気だよ。君にはわかってもらえるけど、そんなことも解らない連中がウヨウヨ居るんだよね」と嘆いている。土屋はまた、「場所が京都東映だったのがいけなかった。東宝だったら慣れっこになっているので何の問題もなかったと思う。東映がいけないという事ではなく、黒澤さんのやる事成す事が一つ一つ奇異に見えたに違いない。当然のことである」と述べている。 さらに土屋は、「当時東映ではヤクザ映画を撮っており、本物のヤクザに偽物のヤクザが、撮影所内にウロウロしていた。黒澤さんの最も忌み嫌うヤクザ。そんな最悪の環境の中で、一段と自己を貫こうとしたに違いない。しかも、身内と思い込んでいた日本側の製作者等にも裏切られ、かつてない傷心を一人味わったことと思う」と黒澤に一定の理解を示している。 山本五十六役にキャスティングされ、黒澤の相談相手だった高千穂交易の創業者で社長の鍵谷武雄は、日刊スポーツ1969年1月19日の取材で「フォックスと黒澤さんの契約書をニューヨークの黒澤プロの法律顧問であるプライヤー氏と黒澤プロの青柳プロデューサーが持っていて、どうしても黒澤さんに渡さない。だから黒澤さんとしては、判断も処置もしようがないというのが現状だ。だからフォックス側が何か動くたびに、全てが寝耳に水。フォックスから多額の製作費が出ていることは確かで、黒澤プロにいくら入っているか分からない。一説には5億4000万円がフォックスから払われたとか…風の便りに聞いただけ。金に関しては、黒澤プロの窪田経理担当重役からも黒澤さんにはほとんど説明はない。黒澤監督は(1969年)1月13日か14日には、皆さんの前に出てお詫びをしようという予定だったが、契約書を入手してからでないと話しようがないという。それで1月8日に黒澤監督、松江助監督と私が通訳として京都に行きプライヤー氏と会ったが、二、三箇条について口頭で説明するだけで契約書を見せてくれない。我々実業家からいえば真に不思議な話で、平沢和重さん、岩田幸彰さんとも、こういうベールをかぶったことにはこれ以上タッチしないでおこうということになった。責任は黒澤さんにあると思う。会社の最高責任者が仕事に取り掛かっていながら、まだ契約書を見たことがないなんてのは前代未聞。しかも契約書にサインをしていないというのに金は動いている。黒澤さんは黒澤プロの重役である青柳プロデューサーに『契約書を渡せ。和訳して、理解するから』と口を酸っぱくして言っているが、どうにもならない。黒澤さんも青柳プロデューサーの業務上背任という見方をし始めたんじゃないかと思う。それにしてもかなり深い問題を抱えているような気がする。撮影が始まった頃、黒澤さんが戸惑うような瞬間を私は何回も見た。初めから辞任に追い込むように仕組まれていたのかも知れない。そばにいてノイローゼには見えなかった。いきなり東京から医者を連れて来て、ノイローゼにでっち上げた。これ以上ノイローゼだと言われ続けたら、洗脳教育じゃないが、本当になっちゃいますよ。黒澤さんは私がいくら『やめなさい!』と言っても自費でもやると言ってます。資金は担保力がありますから。黒澤さんは『最初モタモタしたが、それが過ぎればトントンといく。それは僕のペースなんだ。約束の16週間でやれるんだ』と言っています。しかし私としては現時点では、一切この映画には関与しないハラを決めました」などと述べた。 当初B班監督を務めた佐藤純彌は黒澤降板の経緯について「田草川弘著『黒澤明vs.ハリウッド』に書かれている内容は、ちょっと違うなというところもいくつかある。僕たちが見ていて一番苦労されているなと思ったのは、監督としての黒澤明とプロダクション社長としての黒澤明をどうするかということですね。相反する要素について特に決まった方針を設けることはなかったせいで、次第に追い詰められていき、最後の方では嫌でも考えざるを得なくなっていかれた。東映京都で働いている人たちも映像に対する想いは強いんです。ただ、黒澤さんが目指すものとは違うし、東宝みたいに鶴の一声でみんなが動くという習慣もない。また『用心棒』以前から俺たちは時代劇をやってきたという自負も彼らにはあるわけです。そんなプロとしてもプライドが、黒澤さんのプライドと違っていたというのはあるかもしれませんね。また黒澤さんが素人を多数役者として起用しましたが、現実的に彼らが黒澤さんを満足させられるような演技なんてできるわけがない。でも自分が言い出しっぺの手前、彼らに何も言えない。その分、どこかにいじめられ役を設けてしまう。そんな折にエルモが現場にやって来て、撮影が全く進んでないことに驚いた。ハリウッドではまず撮影に入る前にスケジュールを全部立てて保険会社に提出するわけですが、その通りにいかなければ製作者側が保険会社にペナルティを払わなければならないんですよ。またエルモが見学してるとき、黒澤さんと照明係がケンカになり、照明係がストライキを始めてしまった。僕は北海道で撮影していたんですが、急遽京都に戻り照明係を説得してようやくストライキを解除させた。すると今度は黒澤さんが現場に来なくなった。それで待機中に日本側のプロデューサーが診断書を出して『黒澤さんは病気のために降板する。そうしないと保険会社に言い訳が立たない』と言って来た。それで僕に『代わって監督をやってくれ』と言われたけど黒澤さんと一緒に仕事ができるという理由だけで引き受けた仕事だったから、『冗談じゃない。黒澤さんが辞めるなら、僕も辞める』とはっきり断った。すると彼らは『何故だ?世界的監督になれるチャンスを棒に振るのか?』と言われてカチンときて、思わず「こんなもので世界的監督になんかなりたくねえ!』と言い返した。その後は引き継ぎも話し合いも何もなく、現場を去った。(1968年)年末の新幹線で撮影の斎藤孝雄さんや松江陽一、録音の渡会伸さんら7人で東京に帰りました。『トラ・トラ・トラ!』 は残念ながらああいう形で終わってけど、僕はやっぱり参加してよかったと思う。黒澤さんに教わったこともいっぱいありました」などと述べている。 後任監督を引き受けた舛田利雄は黒澤降板の理由を「思想的なことだとか、金銭的なものだとか、そういうことではなく、メンタルな問題と聞いた」と述べている。同じく後任監督の深作欣二は「[黒澤さんは]きっと素人の演技が思ったようにうまくいかないんでキリキリしていたんだという話を、東映サイドで付いたプロデューサーに聞いたことがありました。「やくざ」のこともあってイライラが積み重なり、予定どおり進まないなかで、夜、突然セットの窓ガラスを木刀で叩き破っちゃったとか。そんなこんなでスケジュールも遅延して、向こうの心配したプロデューサーと話をするんだけど、[……]話をすればするほどこじれていったというような話を聞きましたね。(角カッコ引用者)」と述べている。東映プロデューサー・日下部五朗は「東映京都の正門前に赤絨毯を敷いて、毎朝、すでに扮装を済ませた軍人役の俳優たちがそこを通ってスタジオ入りするんです。山本五十六役が立派な車に乗って到着すると、門の脇に水兵の恰好をした男が『軍艦マーチ』をラッパで吹く。何とも荘厳で珍妙な騒ぎでしたね。ある朝、撮影所に行くと、窓ガラスが軒並み割られていまして、深夜、慣れない東映での撮影にストレスが昂じた黒澤さんが暴れてやった仕業と聞きました」などと話している。 押川義行は「このようなケースは欧米ではそう珍しいケースでもないが、日本映画界の国際的信用と"天皇"クロサワのメンツは今後どうなるかが問題だ。ハリウッドの内情に詳しい日本ユナイト映画宣伝総支配人・水野晴郎氏の説明によれば、アメリカ式契約は合理主義に徹していて、食事のカロリーのパーセンテージからトイレの個数や状態といったような日常生活の問題など細かく契約文書に書き込まれ、監督は演出者としてのパートを受け持つだけで編集に立ち会う権利もないのが普通という。『トラ・トラ・トラ!』の場合も決して例外ではなかったはずで、黒澤監督がこれに対してどこまで妥協しどこまで抵抗したのか、今後の為にもはっきりさせておかなければならない。『トラ・トラ・トラ!』の製作発表当時、20世紀フォックスは1969年度大作として『ハロー・ドーリー!』と他にジーン・ケリー演出作品を予定していたが、『ハロー・ドーリー!』がバーブラ・ストライサンドの前作『ファニー・ガール』の揉めごとで製作開始が遅れに遅れため、製作期間に関する契約上の厳しいシワ寄せが『トラ・トラ・トラ!』に集中したことは容易に察せられるし、黒澤監督の"完全主義"が例によって日数オーバーの危機をはらんだことも、20世紀フォックス側にとっては見逃せない重大事であったに違いない」などと評している。 1969年1月21日、黒澤が久しぶりに報道陣の前に現れ、赤坂プリンスホテルで記者会見。過度の疲労という理由で降ろされたとされる事情を説明した。「私が今まで口をきかなかったのは(1969年)1月9日に私の最終提案を電報でザナック社長に送り、その返事を待っていたためだ」と話し、最終提案とは日本側の撮影は経費も含めて私が責任を持ち、私の思い通りに撮影して、完成品を20世紀フォックスと協定で決めた時期までに渡すというもので、それに対する回答が中に入って頂いた人から1月20日夜遅くザナック社長の言として「もはやお力ぞえ出来ないような状態になった」という形で伝えられたので、「私としては手を引かざるを得ないし、演出を断念する覚悟もした」と説明。「今度の事件の最大の原因は、パンチカード式のアメリカ的撮影手法と、準備に費やした時間の分だけ一気に撮影する私の方式が食違い、さらに双方の意志の疎通が円滑を欠いていたことだったようだ。とくにクランクインしたのは、ワシントンの日本大使館、荻外荘での近衛首相と山本五十六の会談など、この映画のキーポイントになるシーンからで、特に慎重を期したのだが、アメリカ側はなぜ、こんな小さな場面にと納得がゆかなかったらしい。アメリカ映画の作り方と、日本に於ける私のやり方と食い違っていたことが今度の事件に発端だと思う」「解任通達の切っ掛けになった12月23日も、23、24日の両日に一シーンずつ撮るところを、23日にセットの手直しに費やし、24日は午前、午後に一シーンずつ撮って消化するつもりでいたところ、12月24日にホテルにエルモがやって来て、問題の通達を口頭で言い渡された」「撮影の仕方がアメリカ的にいかないということは、青柳プロデューサーに何回も伝えてくれと頼んでいたんですが、青柳はやらなかったようなことがたくさんありますね。契約書が分厚いんで、重要なことは指示したが、忙しくて見る時間がなかったのは事実です。こういうことになって『見せてくれ』と頼んで見せてくれないのは納得がいかない。エルモは『アメリカでもクロサワは病気だから演出をやめる』と発表したという。あの時点で一人の映画作家・黒澤明を社会的にダメにしてしまった。とにかく、いつも僕の知らないところで決定され、運ばれていった」「撮影を二回休んだのは、あとの一週間は態勢を整えるために休んだもので、その一週間のうち四日は、セットが間に合わなかったり、広島ロケが中止になったりしたし、どっちにしても大半は休まなきゃならなかった」などと説明した。「疲れ果てた」とは言ったが元気で、ノイローゼや発作の噂については「今ならそういう診断がおりるだろう」と冗談も飛び出し、「夜、セットを見に行ったら誰もいないので、松江君にガラスを割ったら誰か起きてくるかも知れないと言ってやりました。僕もやり過ぎたようなことはありました」などと話した。「シロウト俳優の演技は予想以上の上出来で、これなら素晴らしい作品ができそうだと希望を持っていた矢先に一方的に静養・中止を告げられ残念で仕方ない。三年間あたためてきたこのイメージを捨てろ、といわれることは"死ね"ということと同じだ」と興奮気味に話した。当面は事後処理に当たり、黒澤プロの役員を辞任した青柳哲郎、菊島隆三、窪田貞弘の三プロデューサーから契約書を渡してもらい、内容を検討するのが先決問題と話した。気違い扱いされたがどこも悪くないとの釈明に「黒沢プロの若手重役がフォックスと組んで演じたお粗末な内ゲバ」との論調も出た。今回の事件はプロデューサーの責任と権限の重大性が大きくクローズアップされた。 1969年2月16日に『まごころを君に』の宣伝と田宮二郎との合作打ち合わせのため来日したラルフ・ネルソン監督が記者会見で『トラ・トラ・トラ!』の黒澤問題にふれ、「最新情報では、フォックスは黒澤にもう一度やってもらいたいのだが、黒澤が『ウン』と言わないと聞いた」と話した。 『キネマ旬報』1969年5月上旬号に当時の白井佳夫『キネマ旬報』編集長が真相究明として調査した黒澤解任の事実という記事が掲載された。それによると黒澤の撮影中に20世紀フォックスの弁護士から正式な契約書が黒澤のもとに入り、黒澤が初めて見たところ、編集権について「世界配給プリントの最終編集はフォックスが行う」と書かれていたという。それは日本側の編集権は黒澤が持つが最終的に、いかなる編集も変更も、20世紀フォックスが単独に決定しうる独占的権限であった。つまり黒澤は下僕で、さらに黒澤を驚かせたのは、旧黒澤プロの青柳哲郎プロデューサーがシナリオの著作権を持っていることが判明したというものだった。 白井は後に、黒澤を「東宝撮影所とスタッフなしでは傑作が撮れない、限定条件付きの天才」と評し、「東宝には監督の意向を先読みして動ける気心の知れたスタッフやキャストがいたが、東映の京都撮影所に単身乗り込んだが進め方が異なり大混乱した。また黒澤にはかつては本木荘二郎のような台本も読め、ちゃんと意見も言え、黒澤に献身的に奔走する有能なプロデューサーがいたが、現場を知らない若いプロデューサーを信用したのが裏目に出た。この失敗が黒澤の限界を証明した」と評している。 そもそもはじまりの段階で、日米で認識のずれがあり、黒澤は総監督のつもりでいたが、20世紀フォックスはあくまでも日本側部分の演出の担当のつもりであった。
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