黒澤プロダクション設立
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時代劇三部作の3本目となる『隠し砦の三悪人』(1958年)は興行的に大ヒットし、第9回ベルリン国際映画祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。しかし、撮影は予定より大幅遅延し、製作費も破格の1億9500万円を計上したため、黒澤作品にだけ高額な製作費が許されることについて社内外から批判が出た。1958年末に黒澤は東宝との契約が切れたが、東宝は黒澤を社内に抱え込むのは危険としつつも、記録的ヒット作を放つ黒澤との関係を完全に絶つことも得策ではないと考えていた。そこで1959年4月1日に黒澤と東宝が折半出資して、利益配分制による「黒澤プロダクション」を発足し、東宝本社内に事務所を設けた。黒澤は映画製作の自由を手に入れたが、同時に経済的責任を背負うことになり、興行収入にも気を配らなければならなくなった。 1960年7月7日、黒澤は東京オリンピックの公式記録映画の監督依頼を正式に承諾した。準備に向けて同年開催のローマオリンピックを視察し、その公式記録映画『ローマ・オリンピック1960』の撮影に立ち会って入念に調査した。それを参考にして5億円超えとなる予算案を組織委員会に提出したが、2億5000万円の予算案を提示する組織委員会とは折り合いがつかず、1963年3月22日に「2億5000万円では理想的な作品は無理だ」として監督を辞退した。組織委員会の与謝野秀事務総長の強い慰留もあり、組織委員会内の記録映画委員会の委員として残留し、その後も与謝野からオファーを受けたが、11月5日に正式にオリンピック公式記録映画を降りた。 黒澤プロダクションの第1作『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)は興行的に失敗したが、その次に手がけた娯楽時代劇『用心棒』(1961年)とその続編『椿三十郎』(1962年)は、その年度の東宝作品で最高の興行収入を記録する成功を収めた。前者はダシール・ハメットの小説『血の収穫』が着想の元となり、後者は山本周五郎の小説『日日平安』を原作としている。どちらの作品も刀の斬殺音や血しぶきなどの残酷描写を取り入れ、従来の時代劇映画の形式を覆すリアルな表現を試みた。これが話題を呼び、その影響を受けて残酷描写を入れた時代劇が数多く作られたが、後年に黒澤は「非常に悪い影響を与えてしまった」と述べている。その次に監督した『天国と地獄』(1963年)はエド・マクベインの犯罪小説『キングの身代金』が原作のサスペンス映画で、その年度の興行成績で1位を記録した。 黒澤プロダクションの設立以後は、作品を重ねるごとに興行収入記録を更新したが、その分作るたびに製作費も巨額になった。『赤ひげ』(1965年)では製作期間が2年に及び、予算は過去最高の2億6600万円を計上した。この作品は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』が原作であるが、一部にドストエフスキーの『虐げられた人びと』を元にしたエピソードを挿入している。黒澤はこの作品を「僕の集大成」と語り、テレビ放送の普及で日本映画の観客数が減少する中、スタッフたちの能力を最大限に引き出して、映画の可能性を存分に追求しようとした。やはりその年度で最高の興行収入を記録し、キネマ旬報ベスト・テンでは1位に選出された。しかし、これが三船とコンビを組んだ最後の作品となった。
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