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与謝野秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/05 23:40 UTC 版)

与謝野秀

与謝野 秀(よさの しげる、1904年7月7日 - 1971年1月25日)は、日本外交官

来歴

1904年与謝野鉄幹与謝野晶子の二男として生まれる。学校法人暁星学園第一高等学校を経て、1928年東京帝国大学法学部政治学科を卒業し外務省入省、在フランス日本国大使館外務書記生となる。

1935年球磨川電気社長などを歴任した坂内虎次の娘で11歳年下の道子と結婚。その後2男3女に恵まれる。長男に政治家の、次男にレジオンドヌール勲章シュヴァリエを叙勲した金融家の達、三女に詩人美術評論家フランス文学者文子がいる。

外務省欧亜局所属時に日独伊三国同盟に反対する見解を示す。第二次世界大戦中は、スペインスイスドイツなどヨーロッパを中心に駐在。赤十字社との関係作りにも尽力した。

在スイス日本国大使館一等書記官などを務め、戦後はベルギー在外駐在事務所長を経て、1949年外務省調査局長、1952年在ベルギー日本国大使館公使1952年エジプト特命全権公使1954年初代駐エジプト特命全権大使1956年駐スペイン特命全権大使。1962年から、田畑政治初代事務総長の後任として、1964年東京オリンピック大会組織委員事務総長[1]に就任。その後、1965年には駐イタリア特命全権大使に任命された。

原子力委員会委員在任中の1971年1月25日虎の門病院にて肝性昏睡で死去した。66歳没。

出版物

著書
  • 1947年 - 『欧羅巴雑記帳』 双山社
  • 1948年 - 『縁なき時計:続欧羅巴雑記帳』 采花書房
  • 1950年 - 『その日・あの日:ヨーロッパの思い出』 ジープ社
  • 1965年 - 『オリンピック雑記帳』 毎日新聞社
  • 1981年 - 『一外交官の思い出のヨーロッパ』 筑摩書房
共著
  • 1964年 - 与謝野道子『エチケット小事典:いつでも、どこでも役立つマナー』光文社
訳著
  • 1950-51年 - フェレンツ・ナジ[2]『鉄のカーテン背後の死闘』読売新聞社(上・下)

親族

関連作品

参考資料

脚注

  1. ^ 毎日新聞”. 2015年6月8日閲覧。
  2. ^ ハンガリー第二共和国期の首相で亡命後に著した。

関連項目

外部リンク




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