坂田重次郎
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坂田 重次郎(さかた じゅうじろう、1869年12月24日(明治2年11月22日[1])- 1919年(大正8年)11月26日[1])は、日本の外交官。外務省通商局長や、在スペイン特命全権公使を務めた。
人物
出雲国仁多郡三成村[1](現島根県奥出雲町)で旧家の金坂太八郎の次男として生まれる。兄の金坂儀一郎は村長を務めた。小学校卒業後大志を抱き上京したが、資金が尽きたため帰郷した。島根県師範学校に入学し3年間在学したが、休校となったため退学。1890年に坂田マスの養子となり坂田姓となる。1894年に高等商業学校(後の東京高等商業学校、一橋大学)本科卒業後、1896年第3回高等文官試験(外交科)に合格し、外務省入省[2][3]。
高等商業学校在学中、1893年に学校から旅費を支給され、同校学生の福田徳三(のちに経済学者)とともに栃木県、群馬県、長野県、新潟県、富山県、石川県、福井県に視察に行った[4]。のちに福田徳三が失職し、生計に困っていた際には、外務省の翻訳の仕事を斡旋した。
外交官補だった1898年にフィラデルフィアなどで秋山真之(のちに海軍中将)と交友をもった[5]。
1904年から始まった日露戦争では、外務省政務局で、山座円次郎局長を補佐し、対露開戦外交や、日露ポーツマス講和会議にたずさわる。1905年には在イギリス日本大使館の第二秘書官を務める[6]。
1911年外務省通商局長[3]。1917年から在スペイン国特命全権公使となるが、1919年11月26日スペインのマドリードで死去。墓所は青山霊園[7]。
- 妻 まさ(東京府士族の河村由政の長女)明治18年6月生
- 長男 重雄 明治44年5月生
- 長女 芳子 明治45年6月生
- 次男 国臣 大正4年12月生
- 庶子 千代(母は島根県士族の福井かめ。旧松江藩士で洋服商の八木半弥の長男栄の妻となる。)明治25年4月生
- 弟 田辺勝太郎(島根県士族の田辺薫の養子となり、古河鉱業取締役。)
- 甥 金坂昇(兄儀一郎長男。東邦電力理事。)
- 親戚 奥名清信(儀一郎五女のクニの夫。川津村旧家の奥名四郎の三男。海軍大佐。宮内省事務官。伏見宮附。)
栄典
脚注
- ^ a b c 『新版 日本外交史辞典』342頁。
- ^ 朝海和夫「東京商大の外交官」『一橋大学創立150年史準備室ニューズレター』第3巻、一橋大学創立150年史準備室、2017年3月、10-19頁、CRID 1390853649799808896、doi:10.15057/da.13271、 hdl:10086/53271。
- ^ a b 人事興信録第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 「一橋大学附属図書館企画展示福田徳三とその時代」一橋大学附属図書館
- ^ 島田謹二『アメリカにおける秋山真之』
- ^ The Japan Year Book1906, p85
- ^ 「坂田重次郎(読み)さかた じゅうじろう」デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
- ^ 『官報』第1276号「叙任及辞令」1916年11月1日。
参考文献
- 紀田順一郎監修・解説『日本人物誌選集 第11巻』クレス出版、2008年。
- 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。
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固有名詞の分類
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