萩原守一 はぎわら もりいち
山口生まれ。外交官。明治28年(1895)帝国大学を卒業、外務省に入る。30年(1897)にドイツ公使館に勤務、その後ベルギー、韓国、アメリカの公使館書記官を歴任。日露戦争後の39年(1906)奉天(現瀋陽)総領事。のち外務省通商局長をつとめ、敏腕家と言われたが、44歳で病死した。
キーワード | 外交官 |
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- 著作等(近代デジタルライブラリー収載)
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- 国民的対韓策 / 萩原守一述 萩原守一, 明29.12 <YDM29510>
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萩原守一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 14:01 UTC 版)
萩原 守一(はぎわら もりいち[1][2]/しゅいち[3]、1868年3月20日〈慶応4年2月27日[2][3]〉 - 1911年〈明治44年〉5月25日[1]または5月26日[3])は、明治時代の日本の外交官。位階および勲等は従四位・勲三等。旧姓は石川[2]。
生涯
長門国豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に生まれる[4]。兄は石川耐蔵[4]。
1893年(明治26年)、萩原明輔の後を継ぎ[5]、萩原に改姓[3]。
1895年(明治28年)、帝国大学法科大学法律学科を卒業[3]。卒業後は外務省に入省して、外交官となった[1][3]。
1897年からドイツ帝国公使館に勤務する[1]。その後ベルギー、大韓帝国、清、アメリカ合衆国の公使館で書記官を務めた[1][3]。1906年に奉天総領事館の総領事となる[1][6]。
脚注
- ^ a b c d e f g 萩原守一 - 国立国会図書館(近代日本人の肖像)2022年12月15日閲覧。
- ^ a b c "萩原守一". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2022年12月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i "萩原 守一". 20世紀日本人名事典. コトバンクより2022年12月15日閲覧。
- ^ a b 「近代名士之面影 第1集」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 護国寺の墓誌
- ^ 奉天総領事館 - アジア歴史資料センター(公文書に見る明治日本のアジア関与)2022年12月16日閲覧。
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