平和主義への転向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/29 22:44 UTC 版)
第一次世界大戦が終結した1918年(大正7年)末パリ講和会議に派遣された。会議ではウッドロウ・ウィルソン大統領が国際連盟構想を提唱し、当初は反感を覚えたものの、ドイツに賠償を求めるだけでは世界平和が保障されないとの道理に納得した。帰途ワシントンD.C.で第1回国際労働会議に参加し、1920年(大正9年)2月帰国した。 帰国後、会議に参加した馬場恒吾、小村俊三郎、佐藤安之助等と共に松岡洋右、坂田重次郎、田中国重、木村鋭市等を招いた座談会では、日中親善のため南満洲鉄道を放棄し、満洲を返還することを主張した。一水会[要曖昧さ回避]では中国の抗日政策は日本に責任があると論じ、これを聞いた本多熊太郎と有吉明から病気を疑われている。 1921年(大正10年)4月の東亜新聞大会ではウィルソン大統領の国際連盟構想に賛意を示し、愛国主義と国際主義を融和し、正義、公道、博愛、平等の原則に基づき世界平和を実現することを説いた。同年『国際連盟』誌において軍備縮小、山東撤兵、労働法規制定、アヘンの4問題に取り組む必要性を主張した。
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