舛添要一の合流と党名変更
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「新党改革」の記事における「舛添要一の合流と党名変更」の解説
2010年4月23日、自由民主党を離党した舛添要一らが改革クラブに合流し、名称変更(対外的には新党結成)した。新たな政党結成ではなく党名変更であるため、改革クラブへの政党助成金の交付はこれまで通り受けることができる。なお、舛添は、自由民主党の参議院比例代表選出議員であるが、2007年の当選時には改革クラブは政党として存在していなかったため、公職選挙法の定める移籍の制限には抵触しない。 舛添を党首とする動きに反発し、4月22日に中村喜四郎が離党。翌23日に大江康弘も「誘われたが、政党交付金目当てで大義名分がない」と批判して離党。改革クラブの新党移行により衆参の統一会派「自由民主党・改革クラブ」が消滅。中村は引き続き衆議院で自由民主党との統一会派「自由民主党・無所属の会」に参加し、活動した。 4月23日、舛添代表が都内で「新党改革」の結成会見を行った。なお、新党改革の旗揚げに際して、代表の舛添は略称を「ますぞえ新党」とする方針を表明していたが、公職選挙法86条の7第1項後段は、届出る政党の名称や略称に代表者の氏名を類推させる表現の使用を禁じており、中央選挙管理委員会が認める見込みがないことが判明したことから、この略称使用は幻に終わった。 6月の鳩山由紀夫内閣総辞職に伴う首班指名選挙では舛添代表を全員支持。 7月11日に行われた第22回参議院議員通常選挙において、比例区での得票率が2.0%となり、政党助成法における政党要件を引き続き満たし、2016年7月までは国会議員が1人以上所属していれば政党要件を満たすことになった。だが議員数は参議院で6人から2人へと激減し、活動に制約がかかることから7月16日にたちあがれ日本と参議院で統一会派「たちあがれ日本・新党改革」を結成した。参議院会派としては5人となり、予算委員会での質疑に参加できるようになった。 2011年8月の菅第2次改造内閣退陣に伴う首班指名選挙では1回目は舛添に投票。決選投票においては自由民主党・公明党だけでなく同会派のたちあがれ日本も自由民主党総裁・谷垣禎一を支持した中、白票を投じた。 2012年1月18日、たちあがれ日本との統一会派を解消する(たちあがれ日本は翌19日に自民党と統一会派結成)。 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙で比例東北ブロックおよび比例東京ブロックに比例代表公認候補を擁立した。また、他の政党の公認候補11名を推薦した。選挙の結果2名とも落選し、衆議院での議席獲得はならなかった。2013年7月の第23回参議院議員通常選挙に改選を迎える舛添代表は不出馬を表明し、他にも党公認候補を擁立しなかった。したがって新党改革所属議員は荒井幹事長1人となる。 党幹部だった矢野哲朗は「(舛添体制時代の)新党改革は総会も役員会も一度も開かれていなかった」と述べている。
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