その後の現役生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 03:35 UTC 版)
「ナディア・コマネチ」の記事における「その後の現役生活」の解説
1977年のヨーロッパ体操競技選手権でコマネチは2つのメダルを獲得したが、ソ連に有利なように採点がされたとチャウシェスク大統領は怒り、ルーマニアチームは大統領専用機での帰国を命じられた。この出来事の後、カロリーコーチは代表チームのコーチを辞任させられ、デヴァで新たな選手の発掘を行うこととなり、コマネチはブカレストに移って体操を続けることとなった。両親の離婚や練習環境の変化によるストレスで1978年にフランスのストラスブールで開かれた世界体操競技選手権に体重が増えすぎて体形が崩れた姿を現した。段違い平行棒で落下したコマネチはエレナ・ムヒナ、ネリー・キム、ナタリア・シャポシュニコワに敗れて4位となり平均台でのみ金メダルを獲得した。大会終了後コマネチはデヴァにいるカロリーコーチの指導を再び受ける許可をもらい、スリムになって登場した1979年のヨーロッパ選手権では男女を通じて初の個人総合3連覇を果たした。同年12月の世界選手権団体戦は金属グリップで手首を切ってしまった。ドクターストップがかかっていたもののコマネチは試合に強行出場し平均台で9.95をマークし世界選手権団体でルーマニア女子が初の金メダルに貢献した。コマネチは演技後、膿瘍ができた手の治療のため数日間入院した。 1980年モスクワオリンピックでは個人総合でエレナ・ダビドワに次いで銀メダル、平均台、床で金メダル(ゆかはネリー・キムと同点)、団体でも銀メダルを獲得した。コマネチは1981年に現役生活を引退し、1984年に国際オリンピック委員会の委員に就任する際には引退記念行事が行われた。
※この「その後の現役生活」の解説は、「ナディア・コマネチ」の解説の一部です。
「その後の現役生活」を含む「ナディア・コマネチ」の記事については、「ナディア・コマネチ」の概要を参照ください。
- その後の現役生活のページへのリンク