申侯の乱
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申侯の乱 | |
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戦争:西周の滅亡 | |
年月日:紀元前771年 | |
場所:鎬京 | |
結果:西周の滅亡 | |
交戦勢力 | |
西周 | 犬戎 申 繒 |
指導者・指揮官 | |
幽王 桓公 |
犬戎の首領 申侯 繒侯 |
戦力 | |
不詳 | 不詳 |
損害 | |
不詳 | 不詳 |
申侯の乱(しんこうのらん)は、紀元前771年に起きた西周に対する、申の申侯が主導した反乱である。申のほかにも繒・犬戎が、反乱軍に加勢した。この反乱の中で周の幽王は殺され、この幽王の死を以て西周の時代が終わったとされている[1]。
背景と反乱
史記・周本紀によれば、幽王3年(紀元前780年)に美女の褒姒が入宮し、幽王の寵愛を得て、子の伯服[注釈 1]を産んだ。幽王は正室の申后と子の太子宜臼を廃し、褒姒を正室としその子の伯服を太子としている[3]。
史記・周本紀のエピソードとして、以下のようなものがある。褒姒は笑わなかったために、幽王は笑わせる方法を考えた。多数の方法を考えたがどれも成功せず、最終的に「烽火戯諸侯」と呼ばれる方法を使って褒姒を笑わすことに成功した。ある日、幽王は緊急事態の知らせの烽火を上げさせ太鼓を打ち鳴らしたところ、諸将が駆けつけたが、実際は何ごとも起こっておらず、右往左往する諸将を見た褒姒は、そのときはじめて晴れやかに笑った。以降も非常事態ではないのに、幽王は烽火を上げることで褒姒を笑わせた。しかし、次第に諸将は非常事態の知らせに対して不信感を抱くようになったということである[4][5]。
史記・周本紀によると、申后・宜臼の廃后・廃太子に加え、さらに幽王による佞臣の虢石父の任用もあり、申后の父で太子の祖父に当たる申侯は憤怒した[6]。そして幽王11年(紀元前771年)、申侯は繒や犬戎とともに周へ侵攻した。幽王は烽火を上げ救援を求めたが、虚報に懲りた諸侯は援軍を出さなかった[4][7]。幽王や鄭の桓公らは驪山で殺された[8]、褒姒は犬戎に連れ去られ[6]、都の鎬京は荒された。
一方で、繋年では反乱のいきさつについて別の説を伝えている。王子宜臼が申に逃亡すると、幽王は軍を起こし申を包囲した[9]。さらに繒が西戎(犬戎)に降伏し、両軍が幽王を攻めたことで幽王と伯盤(伯服)が死んだという[9]。
乱後
史記・周本紀によると、申侯と諸侯らは元太子であった宜臼を擁立して平王とし[6]、紀元前770年には、周の都を鎬京から洛邑に東遷している[10]。これ以降の時代は東周時代とよばれる[10]。権力の空白地帯となった鎬京含む関中は、秦が領有した[11]。
一方、竹書紀年によれば、申侯や魯侯、許の文公は平王(元太子であった宜臼)を擁立し、天王と称させた[12][13]。一方で、虢公翰は余臣という王子を擁立した(携王)。この後しばらく周では王が二人並び立つ状態が続いたものの、晋の文侯(覇者の文公とは別人)によって携王は殺された[14]。
また繋年によれば、王子余臣は幽王の弟で、幽王の死後、諸官に擁立されて王に立ったとされている(こちらでは、「携恵王」もしくは「恵王」と表記)[15]。年の解釈には諸説あるが、晋の文侯(覇者の文公とは別人)によって携恵王は殺されるという点で竹書紀年と一致している[15]。こちらでは、平王の即位は余臣の即位からしばらく経ってのこととされる[15]。
脚注
注釈
出典
- ^ 佐藤信弥 2016, p. 142.
- ^ 佐藤信弥 2021, p. 103.
- ^ 《史記巻四 周本紀 第四》:三年,幽王嬖愛褒姒。褒姒生子伯服,幽王欲廢太子。太子母申侯女,而為后。後幽王得褒姒,愛之,欲廢申后,並去太子宜臼,以褒姒為后,以伯服為太子。周太史伯陽讀史記曰:「周亡矣。」昔自夏后氏之衰也,有二神龍止於夏帝庭而言曰:「余,褒之二君。」夏帝卜殺之與去之與止之,莫吉。卜請其漦而藏之,乃吉。於是布幣而策告之,龍亡而漦在,櫝而去之。夏亡,傳此器殷。殷亡,又傳此器周。比三代,莫敢發之,至厲王之末,發而觀之。漦流於庭,不可除。厲王使婦人裸而譟之。漦化為玄黿,以入王後宮。後宮之童妾既齔而遭之,既笄而孕,無夫而生子,懼而棄之。宣王之時童女謠曰:「檿弧箕服,實亡周國。」於是宣王聞之,有夫婦賣是器者,宣王使執而戮之。逃於道,而見郷者後宮童妾所棄妖子出於路者,聞其夜啼,哀而収之,夫婦遂亡,餎於褒。褒人有罪,請入童妾所棄女子者於王以贖罪。棄女子出於褒,是為褒姒。當幽王三年,王之後宮見而愛之,生子伯服,竟廢申后及太子,以褒姒為后,伯服為太子。太史伯陽曰:「禍成矣,無可奈何!」
- ^ a b 寺田隆信 1997, p. 28.
- ^ 《史記巻四 周本紀 第四》:褒姒不好笑,幽王欲其笑萬方,故不笑。幽王為烽燧大鼓,有寇至則挙烽火。諸侯悉至,至而無寇,褒姒乃大笑。幽王悦之,為数挙烽火。其後不信,諸侯益亦不至。
- ^ a b c 《史記巻四 周本紀 第四》:幽王以虢石父為卿,用事,国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利,王用之。又廢申后,去太子也。申侯怒,與繒・西夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵,兵莫至。遂殺幽王驪山下,虜褒姒,盡取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼,是為平王,以奉周祀。
- ^ 佐藤信弥 2016, p. 136.
- ^ 《史記巻四十二 鄭世家 第十二》:二歳,犬戎殺幽王於驪山下,並殺桓公。
- ^ a b 佐藤信弥 2021, p. 104.
- ^ a b 佐藤信弥 2021, p. 109.
- ^ 佐藤信弥 2021, p. 114.
- ^ 佐藤信弥 2016, p. 137.
- ^ 佐藤信弥 2021, p. 110,111.
- ^ 佐藤信弥 2021, p. 111.
- ^ a b c 佐藤信弥 2021, p. 111-113.
参考文献
- 佐藤信弥『周-理想化された古代王朝』中央公論新社、2016- 9-25。ISBN 978-4-12-102396-4。
- 佐藤信弥『戦争の中国古代史』講談社、2021年3月20日。 ISBN 978-4-06-522861-6。
- 寺田隆信『物語 中国の歴史』中央公論新社、1997年4月25日。 ISBN 4-12-101353-0。
申侯の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 04:46 UTC 版)
詳細は「申侯の乱」を参照 周の幽王時代、申侯の娘の申后が王后であった。しかし、幽王は褒姒を寵愛した。遂には申后と太子の宜臼を廃し、褒姒を王后、その子の伯服(中国語版)を太子とした。このことに申侯は震怒した。紀元前771年、申侯は繒(中国語版)と犬戎で反乱を起こした。幽王は驪山で殺された。申侯は魯の孝公や許の文公らと共に申国内で太子の宜臼を即位させた(平王)。
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