西周の滅亡・東遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:21 UTC 版)
詳細は「申侯の乱」を参照 幽王3年(紀元前780年)、美女の褒姒が入宮し、幽王の寵愛を得て、子の伯服(中国語版)を産んだ。幽王は正室の申后と子の太子宜臼を廃し、褒姒を正室としその子の伯服を太子とした。 褒姒は笑わなかったために、幽王は笑わせる方法を考えた。多数の方法を考えたが、成功しなかった。最終的に「烽火戯諸侯(中国語版)」という方法を考えた。ある日、幽王は緊急事態の知らせの烽火を上げさせ、太鼓を打ち鳴らした。諸将はさっそく駆けつけたが、来てみると何ごとも無い。右往左往する諸将を見た褒姒は、そのときはじめて晴れやかに笑った。幽王は褒姒を笑わせるために、次々に烽火を上げために、諸将は狼煙を信用しなくなった。 幽王は佞臣の虢石父を任用したため、国人の怨みを買った。虢石父はよくへつらって利を好んだ。申后の父で太子の祖父に当たる申侯はこのことに憤怒した。紀元前771年、申侯は繒や犬戎とともに周へ侵攻した。幽王は烽火を上げ救援を求めたが、諸侯は援軍を出さなかった。幽王や伯服・鄭の桓公らは驪山で殺された、褒姒は犬戎に連れ去られ、都の鎬京は荒された。申侯や魯侯、許の文公は平王(宜臼)を擁立し、天王と称した。鎬京から洛邑に東遷した。
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