西周の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 10:04 UTC 版)
西伯以来、犬戎が周朝に朝貢するようになった。しかし、5代目の穆王は即位するなり犬戎を討伐しようと考えた。これに祭公謀父が諫言したが、穆王は聞き入れず、遂に犬戎を討伐した。これ以降、戎狄からの朝貢は途絶えた。 宣王39年(前789年)、宣王は千畝で姜氏の戎と戦ったが、敗績した。 幽王6年(前776年)、戎が犬丘を包囲したため、秦の世父はこれを撃つが、戎人に捕まる。1年余りして、世父は還された。 幽王11年(前771年)、幽王が后の申后を退け太子の宜臼を廃すと、申后の父である申侯は怒って繒,西戎,犬戎とともに幽王を攻めた。幽王は烽火を挙げて兵を召集したが、信用を失っていたので誰も来なかった。申侯らは遂に幽王を驪山の麓で殺し、新后の褒姒を捕虜とし、ことごとく周の財宝を奪った。ここにおいて諸侯は申侯と共に幽王の太子であった宜臼を立てて平王とし、周の祭祀を封じさせた。
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