西周国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 10:00 UTC 版)
伊闕の戦いの後、秦は西周国に攻撃する機会を得た。西周の公子周最が李兌に派遣した使者が「今、秦が魏を破って周を攻めようとしています。これこそ趙にとっては勢力拡大の機会です。まず、趙は秦が攻めようとしている西周を守るのが何よりです。ここにおいては、双方とも魏を攻めないことにしましょう。すると、秦は周を攻めても土地は手に入らず、しばらく経つと疲弊して、撤退するでしょう。秦はまだ魏とは講和を結んでおりません。そこで、秦は周から軍を引けば、また魏を攻めて、両国とも疲弊します。もしも、秦と魏が講和を結ぶならば、趙はその仲介役を果たし、両国間における趙の勢力は重くなりましょう。どちらになっても趙の勢力はより大きくなるはずです」と説いた。西周君は周足を使者として秦に派遣し、自身は魏の昭王に援助を求めた。しかし、昭王は上党郡の危急を理由に援助を拒んだ。西周君在回国途中路過魏国的梁囿,十分喜愛。大臣綦毋恢指出魏国的温囿不比梁囿差,並向西周君自薦説不但能得到魏国的援助,還能得到温囿。綦毋恢游説魏昭王指出魏国如不援助西周,那西周将投靠秦国,如此両国合兵進囲南陽(太行山以南),将切断韓・魏両国通往上党郡的要道。如魏王答応派3万人幇助西周駐守辺境,並将温囿以毎年120金的価格租給西周君,那西周便不会投靠秦国。如此既可保証上党郡的安全,也可通過租借温囿多獲得40金的租金。魏昭王采納綦毋恢的建議,派芒卯献出温囿,又答応派兵幇助西周駐守辺境。西周国は外交活動により、秦は西周国の攻略に失敗した。
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