西周時代前期(紀元前1050年頃 - 前950年頃)
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「中国の青銅器」の記事における「西周時代前期(紀元前1050年頃 - 前950年頃)」の解説
牧野の戦いで殷の帝辛(紂王)を破った周の武王は、鎬京(西安近郊)に都を置いた。以後の時代を西周時代と呼ぶ。中国ではこうした王朝の交代を易姓革命と呼び、革命すなわち天の命が改まることであると考えた。当時の人々の考え方では「徳」のある者にのみ、天下を治める資格があった。酒池肉林の故事で知られる殷の紂王は、「徳」を失ったがゆえに天子たる資格を失い、天の意思により王朝が周に交代したと考えたのである。周の社会は封建制度と礼楽制度を基盤とした。青銅器については、殷代のものに比べて宗教的・呪術的性格が薄まり、礼楽の器としての儀礼的色彩が強まったことが、器自体に刻まれた銘文からもうかがえる。周の康王のときに作られた「大盂鼎」という青銅器の銘文には、「殷が滅びたのは過度の飲酒が原因である」という意味のことが書かれており、官吏の飲酒を戒めている。青銅礼器の器種も、酒器が減り、神に穀物を捧げるための盛食器類が多く作られるようになった。もっとも、酒器の減少については、飲酒用の器に陶器や漆器のものが増えたことによるとも考えられている。 青銅器の器形や文様は基本的に殷代後期のものを踏襲しているが、殷代後期をピークとして徐々に文様も形式化し、西周から春秋時代に向けて、工芸品としての芸術性という面では徐々に退潮に向かっている。器種は前代のものを継承しつつ、徐々に整理淘汰が進んでいく。酒器では殷代に盛んに作られた爵と觚が少なくなり、斝はほとんど見られなくなる。盛酒器では尊と卣が減り、壺が主体になっていく。簋は前の時代からあったが、方形の台座を有する簋が新たに登場した。これは実用の食器というよりは儀礼的意味合いの強いものである。穀物神である后稷を遠祖と仰ぐ周においては、簋などの器に蒸した穀物を盛って、神に捧げたものとみられる。文様は殷代の呪術性の強い獣面文や動物文が次第に図式化して幾何学文化し、総体に呪術性・宗教性が薄まって、神や祖先を祀る祭器というよりは礼楽の器という性格が強まっている。器に刻まれる銘文が長文化するのもこの時代からで、作器者の主たる関心は器自体の機能以上に銘文の方にあるとみられる。銘文の内容は、この時代の社会制度のあり方を反映して、器の主が周王室から特別な恩恵を受ける身分であることを強調したものが多い。また、歴史的事実について言及し、金石資料として有用な銘文も多い。一例として、陝西省臨潼県から出土した利簋(「利」は作器者を示す)という器の銘文には、「武王が甲子の日の朝に攻撃を開始して商を滅ばした」という意味のことが記されており、『史記』に書かれていたことが歴史上の事実であったことが判明した。
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