西周金文(B.C.1070頃~B.C.771年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 03:19 UTC 版)
「金文」の記事における「西周金文(B.C.1070頃~B.C.771年)」の解説
殷を滅ぼした周は、殷の文化技術を流用しつつも、さらに王と諸侯の関係をギブ・アンド・テイクによって結び付けようと試み、それが青銅器に鋳込まれる金文に如実に反映されている。帝乙・帝辛と諸侯の間に見られた「諸侯の成果を王が認め、褒美を与えたことによって、家宝の青銅器を作ることができた」という事実についての著述がさらに具体性を持ち長文化した。初期・前期の銘としては、武王の征服を記載した利簋の銘文、殷周革命に言及した大盂鼎の銘文がある。中には、諸侯同士の領地争いを解決した証文を記載した散氏盤の銘文もある。金文の成文は、これら王からの褒賞や領地範囲の明文化を通して、王の仲介があったことを物語るものとなっている。 殷の鋳造技術を引き継いだ当初の金文では、成文の書式や末尾の「図象記号」がそのまま流用され、工房の継続が見て取れる。一方で、文字を整える意識はさらに洗練され、描画的だった肉厚の点画も均一の太さを持つ線で書かれるようになり、文字の大きさも画数に関係なく一定の面積に収まるように、「大克鼎」の銘のように、文字を一字づつ枠線の中に収めるように製作されるようにもなっている。文章の長文化は、目下「毛公鼎」32行500字を最大とするところまで発達した。これは殷の金文・青銅器が素朴な祖先への祭祀道具にとどまっていたことに対し、周金文が土地争いの解決案や以後の政治方針を神前で表明するための宣誓記念物へと内容を大きく変えたことに起因するものといえると同時に、周の弱体化にともない、青銅器鋳造技術者が周王朝の工房を離れ、諸侯お抱えの技術者となって中国各地に散り散りになっていく前段階に達したことも表明するものである。 利簋の銘文 大盂鼎の銘文 大克鼎の銘文 毛公鼎の銘文 散氏盤の銘文
※この「西周金文(B.C.1070頃~B.C.771年)」の解説は、「金文」の解説の一部です。
「西周金文(B.C.1070頃~B.C.771年)」を含む「金文」の記事については、「金文」の概要を参照ください。
- 西周金文のページへのリンク