入宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 18:29 UTC 版)
父は河内郡温県の人で、早くに亡くなった。母は魏郡の鄭翁(名は不明)に再嫁し、鄭惲と鄭礼を生んだ。傅昭儀は若くして上官太后の才人となり、元帝が太子となってから、進幸を得た。黄龍元年(前49年)に元帝が即位すると、倢伃となり甚だ寵愛された。傅倢伃には才略があり、よく人に仕えた。平都公主(中国語版)と劉康(定陶恭王)を産み、劉康は才芸があったため元帝にとりわけ愛された。劉康は永光3年(前41年)に済陽王に立てられた。 馮倢伃が劉興(中国語版)(中山孝王)を産んだのち、元帝は倢伃の上に「昭儀」を設け、傅倢伃と馮倢伃を昭儀とした。傅昭儀と劉康が母子共々元帝に寵愛される一方、王皇后・皇太子劉驁(成帝)母子はあまり寵愛されなかった。竟寧元年(前33年)に元帝が病床に臥した際も、傅昭儀と劉康が常に左右に侍る一方で、王皇后と劉驁はほとんど進見できなかった。元帝は皇太子を劉康に代えようとしたが、史丹の説得により思いとどまった。
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